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2014年01月18日

『農業全書に学ぶ』シリーズ5  集団を守る備蓄の仕組み ~危機に備えるネットワークづくり~

「無知な鳥獣でもみな後日の災難に備える心があるものである。みな、冬の風、寒さ、雪、霜に備えて、夏秋のころから食物と住みかの用意をするのである。それに対して、万物の霊長といわれる人間として、身分を問わずどんな人でも、能力に応じて前もって凶年に備える事もせず、万事につけ不慮の変事にあうかもしれないことを考えず、対策を立てておかないということは、まさに鳥獣にも劣るというべきであろう。」  
農業全書・巻之一 農事総論より

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農業全書に語られる「農」は、農作物の生産方法だけに留まりません。それは、「農」=「食べる」ことが人々の生活の基本であり、国の安心・安全の基盤に「農」があると捉えていたからです。農民の安定・幸せ、ひいては天下国家の安定・安心の為の農業。そこには自分の利益の為の農ではなく、天下万民の安心のための農。組織防衛としての心の在り様をも記されていました。
農業全書においては、農は作物を作ること以上に消費の仕方、備蓄の仕方も大切で、常に長期的視点を持ち、天下国家や組織防衛の視点で農を営み続けるべきであると記されています。まさに 『社会的役割意識と志を持つ農民 』宮崎安貞です。400年も前の一農民であるとは本当に思えません。
今回は、農業全書の志と江戸時代の備蓄体制から、集団防衛・備蓄のあり方を学んで行きたいと思います☆
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◆農業全書における備蓄の捉え方
自然災害等による飢饉が数年おきに頻発した江戸時代。鎖国政策と相まって、「如何に国内自給によって食糧危機を乗り切り適応するか?」が、日本における最重要課題でした。
もちろん生産量の拡大、農業技術の向上は重要です。しかし、それ以上に、消費の仕方、食糧保存・備蓄の仕方が重要であると農業全書は説きます。
具体的には、限られた生産量の中で危機に適応する為に、豊作時こそ長期的視点に立ち7~8割程度の消費に抑え、日々の質素・倹約を行なう。そして生まれた余力分2~3割を備蓄に回す。これを3年(以上)続ければ、如何なる困難にも対応できる。これを農民、町民、武士、藩を問わず行なっていく事が、国の安心を齎す。というものです。まさに「自分たちの安全を自分たちで守る」という自衛の意思に貫かれています。
 
 
◆江戸時代の備蓄体制
日本でも大掛かりな集団備蓄は縄文時代の高床式倉庫にはじまり、国策としても室町時代から徐々に始まっています。本格的に発達したのは江戸時代。
265年の間に、朱子学の伝来や農業全書の普及により、官主導・藩主導の「義倉」(ぎそう)や、民主導の「社倉」(しゃそう)という食糧備蓄の倉庫や仕組みが整えられて行きます。これらは、災害や飢饉に備えて、米などの穀物を一般より集め、または富かな者から寄付を得て、これを貯蓄するために国内の要地に設けた倉庫です。この仕組みは地域によっては、明治時代以降にも引き継がれていきます。
それでは、江戸時代の備蓄の仕組みをご紹介します。
%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B.jpg会津藩初代藩主・保科正之
◆御用米 ~江戸幕府及び諸藩の備蓄の仕組み 
江戸幕府は、非常時に備え御用米という備蓄米を江戸城・大坂城などの幕府直轄の城や各地の幕領などに備蓄していました。当初は政情が不安定であり、専ら軍事的な事態に備えた兵糧米(ひょうろうまい)備蓄の意味がありました。
飢饉救済を目的とした備蓄は、「知られざる名君」として歴史通に評価される初代会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)が、1655年に領内で行った備蓄体制がその先駆とされています。
具体的にはまず藩が米を備蓄し、凶作や飢饉のときに被災者に貸し出します。貸したコメは豊作の際に、藩に返済(利息2割)すればよいとしました。初め7000俵からスタートした備蓄は10年後には2万3000俵、幕末には10万俵と拡充の一途をたどりました。この備蓄の仕組みの充実により、会津藩では度重なる東北大飢饉でも餓死者を出さず、農民たちの暮らしは安定していたのです。
 
 
◆囲米 ~江戸幕府及び諸藩・町村の備蓄の仕組み 
江戸幕府も社会の安定とともに災害対策に転じるようになり、1683年には諸藩に対しても囲米(かこいまい)を命じます。
囲米とは、江戸時代に江戸幕府及び諸藩・町村が米などの穀物を予め社倉、義倉に貯蔵して万が一に備えた制度です。以後、町村に対しても同様の措置が奨励され、寛政の改革(1787-1793の際には江戸の各町に対して七分積金が命じられました。1843年には、江戸の七分積金による囲米が23万石、諸藩の囲米が88万石あったとされています。
◆義倉 ~官主導の組織による備蓄倉庫 
義倉(ぎそう)とは、江戸幕府及び諸藩が主導して災害や飢饉に備えて米などの穀物を一般より徴収し、または富かな者から寄付を得て、これを貯蓄するために国内の要地に設けた倉庫のことです。万一に備える一方で、穀物の腐敗の防止と義倉の維持のために古い穀物を安価で売却し、また一般に低利で貸し付ける事も行われていたようです。
 
◆社倉 ~町民主導の組織による備蓄倉庫 
これに対して、地域・民間が主体で義倉と同様の事業を行ったものを社倉(しゃそう)と呼びます。
困窮農民の救済を目的とした社倉の仕組みは,常平倉の官米を農民に分配し,秋に2割の利息をつけて返還させ,これを社倉に貯蔵して以後,独立運営を行い、夏に穀物を貧農に貸し冬に回収する仕組みです。
この考え方は義倉が衰退した南宋期の中国において、朱子によって義倉に代わるものとして提唱されたと言われており、日本に朱子学とともに伝来しました。飢餓救済の為の備蓄の先駆者・会津藩主・保科正之が1655年に行なった備蓄の仕組みは藩主導でありますが(幕府主導の仕組みではなく、保科正之が独自に取り組んだという意味で)この社倉にあたります。
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◆七分積金 
七分積金とは寛政の改革における政策のひとつです。寛政3年(1791)老中松平定信が江戸の町費の倹約を命じ、その倹約額の7割を積み立てて、不時の出費や食糧備蓄に充てるとともに、貸付金としても運用したものです。
<事例1>
●江戸時代、西尾城下の御用商人達が建てた備蓄蔵(愛知県西尾市)
愛知県西尾市の文化財である西尾の義倉蔵は、西尾義倉会が義倉米を貯蔵するため、安政4年(1857)から6年頃に伊文神社の境内地を借用して建てられた21坪の土蔵です。西尾義倉会は、城下の御用商人らが飢饉時に困窮者の救済を行なうことを目的に設立した組織で、御用達等の寄付米を元米として義倉に貯蔵し、平時にこれを貸し付けることにより利米を稼いで備蓄米を増やし、飢饉の際には難民に安売りや施米を行ないました。この義倉蔵は発起人達の子孫の手によって引き継がれて行き、昭和21年(1946)まで続きました。 <リンク>
 
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<事例2>
●武士に力を借りず、町人が自ら組織した倉(岡山県倉敷市)
近世の倉敷には力の弱い者、社会的弱者を救い、また、仲間に入ったお互い同士で融通しあうための、義倉という仕組みがありました。これは武士に力を借りず、町人が自ら組織したという点で意義深い制度です。
その資本のつくりかたですが、出資仲間を収入に応じてランク付けして麦を集めました。一番多い人が四石、一番少ない人が三斗。集まった麦をグループ分けされた出資仲間に連帯保証をさせて貸し付けて利子を取ります。最初に集めた麦に対する利子は払いません。無利子で借りた麦を利子を取って貸し付けて増やします。また、寺の住職にも出資仲間に入ってもらい集会所を提供して貰ったり、事務管理をやってもらっていました。
義倉が出来たのは江戸時代中期(1700年代後半)で、村の有力者、庄屋、医者たちが発起人でした。明治まで続いていますので、128年もの間続いたことになります。
 <リンク>
※上記の事例はいづれも民主体の組織によるもので、区分上では「社倉」にあたります。江戸後期には義倉・社倉の名称の混同が進みややこしくなっています。
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◆信頼関係に基づく備蓄ネットワーク
このように自衛の意識から、江戸時代は危機に対応する為、様々な備蓄の取り組みを官民問わず行なってきました。その備蓄の仕組みは官・民であれおおよそ共通で、その仕組みの実現・維持は「信任関係に基づいたネットワークの構築」により成されています。「食料の確保をどうする?」この課題は自然外圧と対峙してきた人類史において、常に組織的に取り組む最重要課題であったことを忘れてはならないと思います。
 
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◆現代の備蓄・これからの備蓄
 
ひるがえって現代。日本では巷に食品が溢れ、安い輸入食材が24時間いつでも手に入ります。もちろん、自然外圧による飢餓の恐怖や不安とも、無縁の生活を送っています。けれども、わたしたちは本当に自然外圧や食料難のリスクを克服できているのでしょうか?
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『汚染米、経済破局、自然災害(大地震・洪水・干ばつ)、いずれの局面を切り取っても、食糧の確保が生存の鍵となるのは言うまでもないことだと思います。ここに、「食糧の確保=備蓄」が優先課題として登場することとなるのです』
【汚染米・食料危機に備える】備蓄をどうする?より <リンク>
 
現在の日本の豊かな食料事情。その多くが実は市場依存型であり、海外輸入作物依存であることが分ります。もちろん、この海外や国内の市場によるライフラインは完全なものではなく、国際情勢や世界経済、自然災害の状況次第では、何時断たれてもおかしくないものなのです。 
地域共同体が解体され、個人消費中心になっている現代の私たちは、個人単位や家族単位での備蓄にも現実的には限界があり、もしもの時には国や自治体に依存するしかありません。今こそ農業全書や江戸時代に習い、信任関係にもとづいた新たな自治ネットワークの主体的構築(地域NWや企業NWによる備蓄)が必要なのではないでしょうか?
今後も現代社会における備蓄の在り方を追及して行きたいと思います

投稿者 kasahara : 2014年01月18日 List   

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