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2012年05月19日
農から始まる日本の再生シリーズ~改めて新しい農のカタチとは?プロローグ
画像はコチラからお借りしました。
農業をめぐる外圧状況については、以前当ブログの、
「経済危機・震災を機に、日本の農業を再生する~現状分析編~」にて扱いました。
ここでは、経済危機→輸入ストップや原発危機→食の安全崩壊、自然災害→栽培危機などから食糧危機の問題を提示しました。
もう少し、別の観点から農業が置かれた外圧状況を見てみると、TPP加盟論議以前から経営危機の問題や、担い手不足の問題があげられます。
担い手不足の原因として農業の経営自体が、他産業に比べて困難であることはよく言われます。そこでは儲かりにくい≒付加価値がつきにくいという問題から、ブランド化や販路開拓も含めた一次産業だけではない六次産業化が突破口として提示されています。
しかし一方では、農業だけでなく工業生産そのものが市場において衰退しつつあるという現実が見えてきます。
その視点からすると、他の工業生産品と同様の生産物として競争するという方針自体も早晩、カベにぶつかってくると思われます。
モノが余り、安い輸入物が市場に溢れれば、ブランド化を果たして生き残れる農業は自ずと限られてきます。
既存の農業のカタチに囚われず、戦略を練っていく必要があります。
そこで、新しい農のカタチを考える上でも、現状の農業について少し掘り下げてみたいと思います。
続きはポチの後で。
いつもありがとうございます。
★★★農業をめぐる期待と実態のズレ
★食の安全及び確保は超国家的課題だが、市場原理に委ねきってよいのか
農業という産業も続けていく以上、経営を考えてなんとか成り立たせていかなくてはなりません。儲けがなければ生産業として存続できないのです。
しかし、一方で全ての生物に必要な「食べもの」というのは安定供給が求められるものです。
例えば、水道や電気など一般的に安定供給が求められる公共性の高いものは総括原価方式や独占禁止法除外などで競争原理から手厚く守られています。農業においてもそうした趣旨から補助金や助成金がありますが、公共性がありながら競争原理にさらされているという点が全く違います。電気代に関しては、公共性で守られながらも一民間企業が独占しているという矛盾点もありますが、農業に関しても非常に中途半端な状況にあると言えます。
逆に、農業の目的を儲け第一として、売れる作物にしぼってブランド化し、採算第一で経営していった場合、おそらく食糧価格は輸入物も含め、大きく価格が変動していきます。産業としては淘汰が進み、アメリカのような一極集中型の産業になっていくでしょう。
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このようになった場合、人々が農業に求める食の安全や確保という期待に応えられるのかという問題となっていきます。
★農業は環境にやさしいか
人々が農業に求める期待は年々高まっています。それは安全な食の確保にもありますが、自然外圧と正面から向き合う農業が持つ癒し効果や教育効果、共同体が育む充足効果など多面的です。
一方でこうした効果を期待し、そこに充足しながらも、現在の市場原理で経営を成り立たせてゆくには、大量の化学肥料、農薬を使用しなければなりません。
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もちろん、現在でも無農薬野菜や有機肥料による栽培も一部見られますが、では有機だというその肥料も本当に昔のような自然循環に乗っているのでしょうか。牛の糞一つをとっても、大量の人工物質を食べさせられたブロイラーのような糞にどれだけ安全性があるのでしょうか。
また、モンサント社の種苗支配にもあるように遺伝子組換え作物や子供ができないF1種の問題も自然の摂理に則っているとは到底考えられません。
加えて、例えば何十ヘクタールもの土地にトウモロコシのみが育っているというアメリカの光景を想像してみると明らかに異常であることに気が付きます。
様々な植物や動物が複雑に関係しあうことで適応を実現している自然の摂理に対して、明らかに無理な状態を強いているのです。
これは市場に出すためにふぞろいさを廃して、均一なクローンのような栽培をしていることとも同じです。ふぞろいさこそが生物の適応戦略であるのにそれをまっこうから破壊しているのです。
このように自然が持つ多面的な効果を期待しながらもそれらを破壊することにもつながってしまっているというのが現在の農業の一側面なのです。
★★★農業における場と主体のズレ
この状況を構造的に捉えると以下のようにいえます。
人類は、既に動物的な生存圧力を超えた同類圧力=共認圧力を活力源とするしかない状態にあり、現に動物的な生存圧力→私権圧力の衰弱という場の変化に反応して潜在意識(本能回路や共認回路)は本源収束を強め、自然充足や共認充足を主活力源にしようとしている(妨害物がなければ、とっくにしている)。
ところが、顕在意識は支配共認一色に染脳されており、その支配共認は己に対立する本源意識を排斥し、意識下に封じ込め続ける。しかも、その支配共認は性闘争→私権闘争を基にして形成されているので意識下の本能回路に連なっており、その意識下の部分は、場の変化に反応してどんどん衰弱してゆく。要するに、支配共認が全ての桎梏(手かせ足かせ)となっており、その旧い共認圧力は一方では新たな共認形成を抑圧・封鎖しながら、他方その旧い共認圧力が作り出す筈の活力は、衰弱する一方である(従ってその共認圧力も、急激ではないが、相当に低下している)。
従って、複雑なことに、新たな場と旧い主体のズレ(潜在意識と顕在意識の断層)、および旧い場と旧い主体のズレ(旧い共認圧力と旧い私権活力の断層)が相互に絡み合っており、この場と主体の間の二重のズレが、現代人に得体の知れない大きなストレスを負荷し、疲労を蓄積させてゆく。
まず第一に、既に私権追求(更には性の自由追求)の活力は衰弱する一方なのに、共認圧力は私権(性権・占有権)第一のままなので、さっぱりリアリティーがなく、ヤル気の起こらない私権課題に(それでも囲い込まれてそれを共認している以上、ましてそれが社会的共認圧力として働いている以上)否応なく立ち向かわなければならない。この状態は、人々に深刻な空焚き疲労・燃え尽き疲労を強いる。これは納得ずくの筈の囲い込み共認による強制的・全身的体罰であり、人類に対する拷問に近い心身損壊の残虐行為である。(もちろん、この角度から、子供や男たちの「人権擁護」が省みられたことは一度もない)。
更に第二に、既に本心(意識下の本能回路や共認回路)は、本源的な自然収束や共認(期待・応望)収束に向かっているのに、その大部分が囲い込みの支配共認に蓋されて意識上への出口を塞がれ、抑圧され続ける。この状態は、人々から可能性収束の芽を摘み取り、人々に無為感や無力感を植え付け、人々を深刻な無気力状態に追い詰めてゆく。これも、人類に対する拷問に等しい残虐行為である。引用元:実現論第4部「場の転換」
本心では自然収束や共認収束に向かっており、金儲け第一のために農業をするわけではないのに、私権圧力はそのままなのでどうしても「どう儲けるか」を第一にせざるを得なくなる。(新たな場と古い主体のズレ)
思い切って私権獲得にまい進しようとしても、そこには充足がついてこない。(古い場と古い主体のズレ)
それでも、現実に農業経営をしていくにはこうした葛藤を脇に追いやるしかない。
けれども、逆に言えば、この古い場を形成する支配観念から脱却できれば全く新たな可能性が見えてくるということになります。これは農業の経営戦略にも大きく関係してきます。
★ ★★農業をめぐる古い支配観念からの脱却と新しい農のカタチ
例えば、現状も様々な農業に関連した取り組みがされています。農業学校や体験事業、就農支援、あるいは市民農園などもその一つと言えると思います。これらは単に農産物をつくるだけではなくプラスアルファを取り入れている事例ですし、担い手を育成する事業とも言えます。
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しかし、仮にこうした場で教えられることが古い支配観念に基づくものであったとしたら、こうした取り組みをすればするほど担い手は減っていくということになります。
ここでも支配観念からの脱却が命なのです。
これは、既存の農業が人々の期待に合ったカタチへと進化する、新事業としての農業をいかに構築できるかという課題でもあります。もちろん、経営体として市場原理の中でも成立することが前提です。
そこで、当シリーズではまずは上記であげたような、単に農産物をつくるだけではなく、担い手育成事業とも言える事例の取り組みとそのカベや課題を調査し、新たな農のカタチを追求します。
具体的には活力があるか、採算はあっているか、人々の期待に合っているかを判断軸とし、さらに上昇するにはどうするか?の提言を目標とします。
おそらく、それは人々の潜在的な期待にマッチするものとなり、六次産業化という言葉を超えた新たな産業としての農業のカタチを示すものとなることを期待しています。
どうぞお楽しみに。
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投稿者 hirakawa : 2012年05月19日 TweetList
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