2019年5月9日

2019年05月09日

自然と接続する回路~滋味豊かな食の背後にある生命感を掴む

いまや全国30ヶ所以上の地域で展開されている、「食べる通信」
この発起人である高橋博之氏は、現代社会が抱える「リアリティ(≒生きる意欲)の喪失」「全て他人事」を「現代人自らが生み出した化け物」と称す一方で、その突破口を「自然・食・農」に見出そうとしています。

滋味豊かな農漁産物の、背後にある自然や働く人々の生命感を掴む。
生産と消費の関係を越えた、価値の共感関係・コミュニティづくりが、現代の閉塞を突破していく。

食べる通信発刊の背景にもつながる、高橋氏が捉えている『農』の価値。
その一端を、彼が記した書籍より紹介します。

以下、転載(都市と地方をかきまぜる:光文社新書)

 

■食べることは自然との唯一の接点

そもそも自然とつながって生きる人々には、自己など存在しない。自然は自分であり、自分は自然なのだから。自分も自然の一部だという感覚があれば、そこに自己という独立した存在は成り立たない。したがって自然という概念も存在しない。自分と自然は一緒なのだ。

自然と暮らすアイヌには「自然」を表す言葉がなく、あえて表現するなら「カムイ(神)だ」と彼らは言う。農家が持っている「田んぼは自分で、自分は田んぼである」という感覚。漁師が持っている「海は自分で、自分は海である」という感覚。こういう感覚を持っている人の中で、自分探しに頭を悩ませている人を見たことがない。そして生きる実感がないと悩んでいる人もいない。

ふるさと難民がこうした感覚を取り戻せるとしたら、それは生産者、そして生産者の向こうに広がる自然とつながれる「食べもの」、あるいは「食べる」という接点を捉え直すことによると私は思っている。私たちは食べる行為を通じて、環境(自然)が私たちの体を通過している。そして体の一部とその自然は常に入れ替わっている。

生産者と消費者の関係は、現代の流動化社会においても、お互い依存できる分かりやすい関係ではないだろうか。消費者は食べないと生きていけないし、生産者は買ってもらわないと生活できない。お金と食べものという交換可能な貧しい関係を、食べる人とつくる人という交換不可能な豊かな関係に昇華できれば、私たちはこの流動化社会を漂流しながらも、溺れずに泳ぎ切ることができるのではないだろうか。
都会と田舎が価値で結びつく新しいコミュニティの中心には、だからこそ農漁業があると思う。

 

■自然と接続する回路
生産者と直接つながって食べものを買い、その関係を続けていると、都市にいながらにして自然とはなんたるかを知ることができ、人間の力ではどうにもならない自然と間接的につながることができる。なぜなら私たちは食べるという行為を通じて、体の中に自然を取り込んでいるからだ。

都市で生きる私たちは、普段は食べものの表側しか見えないので、なかなかそのことを理解しにくくなっている。生産者から直接購入し、食べものの裏側が見えると、そのことが理解できるようになっていく。

>私たちの体をつくる食べものは、もともとは他の生き物の体の一部だった。分子レベルで見るとその生きものの体の一部は私たちの体の分子に合成され、もともと私たちの体の一部であった分子はその分だけ分解され、体外に放出される。つまりその生きものの体の一部が、私たちの体の一部と入れ替わっているのだ。車のガソリン給油に例えれば、ガソリンは燃料になるだけでなく、エンジンやボディ、シャフトの一部に成り代わるということになる。

こうして食べものは単にエネルギーになるだけでなく、私たちの体そのものになる。そうやって取り込まれる生きものたちもまた同様に、他の生きものを取込み、水や太陽といった自然の力を取り込みながら生きていた。つまり私たちは食べるという行為を通じて、自然環境が体の中を通っているということになる。だから自分の健康や命を考えることとは、他の生きものも含めた自然を考えることであり、その自然を考えることとは自分の健康を考えることに他ならない。すなわち自分の命と他の生きものの命、そして自然はすべてつながっている。

>生産者から直接食べものを買うということは、生産者が食べものの裏側の世界にあなたを誘ってくれるということである。農家や漁師は、あなたの口に運ばれる食べものがどういう自然環境で育ったのかをあなたに伝えるだろう。自然と自分の生命がつながっていることを知って理解しながら食べることで、あなたは間接的に自然とつながることができるのだ。

投稿者 noublog : 2019年05月09日