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2021年04月01日

農のあるまちづくり7~テレビマンが農業に転職したわけⅠ

【農のあるまちづくり1~プロローグ】
に続いて。

テレビ番組制作の世界から、農業の世界へ。
彼を衝き動かしたものは。

 

以下、転載(「東京農業クリエイターズ」2018著:小野淳)

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■テレビマンが農業に転職したわけ
「なぜテレビの仕事から農業に転職したのですか?」
農業に転職した当初から今に至るまで、この質問を何度となく受けてきました。
そのたびに「どうしてだろう?」と自分でも考え込んでしまいます。というのも、その答えが明確に出ないからこそ、都市と農との間を自分自身で行ったり来たりしているのではないかと思うからです。

私は2005年に8年続けたテレビ番組制作の仕事を辞め、大手外食グループの農業生産法人に転職しました。当時は今のように、アグリビジネスの展開に期待する風潮はまだ弱く、大手企業の農業参入はかなり先進的なことでした。

転職する直接的なきっかけとなったのは、ある環境問題ドキュメンタリーのディレクターを担当したこと。テレビ朝日系列の「素敵な宇宙船地球号」という番組です。フィリピンのルソン島で進む森林破壊に対抗して、有機農業を実践しながら植林も続けている当時74歳の日本人、田鎖浩さんの活動を追うという内容でした。

かつてフィリピンは国土の半分以上が熱帯雨林に覆われていましたが、建材や薪炭材などの伐採によって、現在では3割弱まで森林が減少しています。森林破壊は環境問題ではおなじみのテーマなのですが、実際、撮影のためにヘリコプターに搭乗して上空から国土を見たときの光景は、筆舌に尽くしがたいものでした。360度にわたって見渡すかぎり、ほとんどの山がはげ山となっていたのです。

フィリピンは日本と同じ稲作の食文化を持っています。しかし国土がこんな状態になってしまうと、天然の水調整機能は失われてしまいます。熱帯地方のため乾季には干ばつが続き、樹木による日影を失った地面は強烈な日光にさらされて雑草も生えない状態に。そして雨季になれば一転、むき出しの斜面は連日の大雨で土砂崩れや洪水を引き起こします。その結果、生活が成り立たない農村からは続々と都市部へ人が流出。番組の中では、電車の線路沿いに続くバラックでの劣悪なスラムの暮らしも紹介しました。

国土が壊れた…とでも表現したくなるような状況のなかで、番組の主人公である田鎖浩さんはNPOを設立、植樹と営農指導を長らく続けていました。

田鎖さんは戦後、商社に勤めてフィリピンに赴任。そこで起業を思い立ち、マニラ麻という現地の農産物を使った製紙工場を立ち上げます。事業は成功し、マニラ麻の農園を広げましたが、60代で会社を現地の人々に引き渡し、自身はフィリピンの農村復興の事業に取り組んだのです。

取材当時、74歳ながら日本とフィリピンを毎年往復し、フィリピン産の枝豆を日本へ輸出したり植樹に適していて除虫効果もあるニームという樹木の活用を広げるなど、さまざまなことに取り組んでいました。私は約1ヶ月間、田鎖さんと過ごしながら、「フィリピンの大地がこんな状況になってしまった原因の一端は、われわれ日本人が負っている。これは日本人としても地球市民としても見過ごしてはいけないことだ」という話を何度も聞きました。

高度経済成長期に日本で育った団塊ジュニアである私は、まさにフィリピンで切られた建材の家屋で育ち、消費してきた当の本人です。番組が無事完成して、放送に良い反響もいただきながら、「めでたしめでたし」と次の番組制作が始まっていく仕事の流れに、うまく乗り切れない自分を感じていました。

投稿者 noublog : 2021年04月01日 List   

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