2021年4月15日

2021年04月15日

江戸時代の農業ジャーナリスト・大蔵永常に学ぶ「6次産業化」の真髄

この記事は、3年前の記事になります。
今日は、6次産業化論を提唱した今村奈良臣氏よりもはるか前の江戸時代の農学者:大蔵永常を紹介します。
彼は、江戸時代の米が第一価値の農産物にあって、百姓が自立し、強い農業をベースとした暮らしを成立させるためには、米以外の農産物を栽培し、その加工品も手掛けていく事が、強い国を創る礎となると説きました。
すなわち、まずは農家一戸一戸の自給があり、その上に地域や国の自給がある。
そのために、各家・各地域・各国の条件を見直し、適切な作物を栽培し、加工も手掛けていく。他国への出荷、販売を考えるのは、エネルギーを含む衣食住のベースを地域資源によってまかなったうえで行っていく事である。利益を第一に掲げては、強い暮らし~国は成立しないと・・・・
すなわち、自給がすべての根であり、結果国富と民富を共に高めると説きました。
今、まさに現代の農が直面する答えを大蔵永常は、説いたと言えるでしょう。
では・・・・【リンク

 

転載開始

TPP11、日欧EPAの合意署名が着々とすすめられ、その対応策として「強い農林水産業の構築」が喧伝されている。いまの為政者からすれば、TPP11も日欧EPAも国を富ますための必然の道であり、農林漁業と流通・加工などとの連携強化や輸出力増強による「強い農林水産業の構築」が農家の所得向上につながるといいたいのであろう。
果たしてそうだろうか?

国が富むとはどういうことか、民百姓(農家)に利をもたらすにはどうしたらいいか。そういったことについては、江戸時代の識者も考えをめぐらせていた。今回はそのひとり、『広益国産考』などの農書の著者である大蔵永常(おおくら ながつね)に着目し、国富と民富を共にもたらす道について考えてみたい。

 

◆「江戸期唯一の農業ジャーナリスト」として
大蔵永常といえば、『農業全書』を著わした宮崎安貞と並ぶ江戸時代の農学者であり、高校の日本史の教科書でも登場するほど著名な人物である。だがその生涯や作品の中身についてはそれほど知られていない。そこで、飯沼二郎氏の『広益国産考』解題(日本農書全集14、農文協所収)によって、かいつまんで紹介しておこう。

江戸時代の農書の主な作品は農文協の『日本農書全集』(全72巻)に収録されているが、そのほとんどは篤農家が生まれ故郷で農業を営みながら、そこで得た農業経営や農業技術についての見識を子孫に伝えようと書き残したものだ。数少ない例外が宮崎安貞と大蔵永常で、二人はともに畿内地方(いまの京都・奈良・大阪など)を中心に各地の農業を見聞し、それを詳細に記録した。ただ、この二人の間には大きな違いがある。宮崎安貞は故郷の福岡に帰って農業を実際に営みながら畿内での体験を検証し、『農業全書』というただ1冊の著書(没後の刊行)を残した。これに対して、大蔵永常は、20代で豊後(ぶんご)国(現大分県)日田(ひた)の地を離れてより、生まれ故郷に根を下ろすことなく、主に大坂と江戸を行き来しながら、各地で農業事情・農業技術についての見聞を広め、それを多くの著書を通して日本全国の農家に普及しようとした。飯沼氏はこうした理由から、永常を「江戸期唯一の農業ジャーナリスト」と呼ぶ。

永常は田原藩と浜松藩で「興産方」(いまでいう特産振興係)として微禄を食んだこともあったが、その数年ずつを除けば、生涯のほとんどを文筆で得た収入だけで家族を養っていた。原稿の売り込みや借金依頼の手紙も多数残っていることから、永常の「俗物性」を指摘する研究者も少なくない。しかし、本が売れなければ食っていけないからこそ、どうしたら農家に売れる本になるかを真剣に考えた。永常にとって売れる本とは「農家に利益をもたらすことを、わかりやすく伝える本」であった。

『日本農書全集』に収録された永常の農書には挿し絵がふんだんに使われている。それは単なる息抜きではない。たとえば『農具便利論』では、各地のありとあらゆる農具が寸法まで入った挿し絵によって詳細に紹介されている。永常の農書は本文の記述も非常に具体的だ。

書かれている中身こそ先進地域の農業の紹介だが、紹介に際して「必ず自分でやってみ、その体験にもとづいて、今までそれを全くやったことがない者でも、彼の本を読んだだけでやることができるように、あるいは、今までその農具を全く見たこともない者でも、彼の本を見ただけでそれを作ることができるように、実に懇切ていねいに執筆した」(飯沼二郎『広益国産考』解題)からだ。
実際、国内で棉栽培がすっかりすたれた現代、和棉を栽培、加工しようという人は永常の『綿圃要務』を教科書にしているとも聞く。

 

◆米第一ではなく、衣食住全般を支える多様な作物を奨励
永常のもうひとつの特徴は、江戸時代、年貢として重きを置かれていた米(稲作)にこだわることなく、さまざまな作物の栽培を奨励したことである。『広益国産考』で取り上げられている主な作物を拾ってみても、杉、檜、松、栗丸太、砂糖、いぐさ、いちび、紫草、ところ、わらび、からすうり、醤油、蝋、畔大豆、葛、綿、養蚕、こうぞ、みつまた、茶、肉桂、養蜂、梅、柿、葡萄、梨、蜜柑、海苔と、じつに多岐にわたる。

こうした、いわゆる工芸的な作物の栽培・加工法は永常のもっとも得意とするところであり、『広益国産考』以前にも、ロウソクの蝋をとる櫨(はぜ)について記した処女作『農家益』をはじめ、『綿圃要務』『甘藷大成』『琉藺百万』『油菜録』『製油録』など、さまざまな専門の本を著している。ちなみに『油菜録』『製油録』は江戸期において燃料として重要であったナタネの栽培法と油の搾り方を記した本である。『広益国産考』は幾多の農書の集大成なのだ。
永常が推奨する農業経営は、こうした多様な作物を適所・適期に配置することで土地と家族労働力を無駄なく生かしていくというものである。

たとえば「畔(あぜ)大豆(まめ)」の項にはこのような記述がある。
「ある国で、むらを治めている人に、わたしが『この地の不毛なところに果樹を植えてみませんか』といったら、その人は『わたしの配下の土地には、一尺だって不毛な土地はない』と答えた。その人の性質は前から聞いていたが、他国を見たことがない人物なので議論しても無駄だと思って、何もいわずに帰ってきたことがある。その土地は、果樹はもちろん、茶や柑橘類を育てれば最高の土地だと見定めていたのだが、どうしようもなかった。……(荒地に果樹を植えない人、畔に大豆を植えない人は)天の賜物を受け取らず見過ごしにしているようなものである。田の畔大豆を作って、他に売ることはさておいても、自家用の味噌豆や馬の飼料にするべきである」(『広益国産考』日本農書全集14、農文協)

『広益国産考』で取り上げられている作物を一言でいえば、「特用作物」とか「換金作物」ということになろう。たしかに永常には副業によって、農家に現金収入をもたらそうという発想がある。しかし、これらの作物は江戸時代にあって食料のみならず、衣料、燃料、住生活までをまかなう重要な作物であった。米が主であり、それ以外は従という見方は支配者の見方なのである。永常の農業経営のベースには衣・食・住、エネルギー全般にわたる農家の自給があり、それを満たしたうえで余ったものを販売することで、利を得ていこうという発想があった。それらが総体として農家に利益(「農家益」)をもたらすのである。

 

◆大蔵永常と「ウメ・クリ植えてハワイに行こう!」をつなぐもの
こうした大蔵永常の精神はけっして歴史の教科書の上だけの話ではなく、時代を超えて、現代の日田の農業にも引き継がれている。それを明らかにしたのが、三好信浩氏(広島大学名誉教授)の近刊『現代に生きる大蔵永常』(農文協)である。三好氏は日田市の出身。産業教育史が専門で多くの著書があるが、郷里の偉人、大蔵永常について研究を重ね、その現代的継承に焦点を当てた本書をまとめた。そこで注目したのが、大蔵永常と矢幡治美氏との共通点である。矢幡治美氏とは大分県大山村長(のち町長)、大山村農協(現・大分大山町農協)組合長として、大山の農業革命を牽引した人物である。

矢幡治美氏が大山村農協組合長になった1954年(昭和29年)当時、大山(現・日田市大山町)は農家戸数約800戸、3650haもの広大な山林原野を抱えるものの、そのほとんどが不在地主の持ち山であり、耕地面積は380ha、平均耕作面積45aにすぎなかった。そこでは自給的な稲作、麦作が営まれ、わずかに大麻や葉タバコが現金収入を支えていた。そこに換金作物としてウメ、クリの栽培を導入したのが矢幡組合長であった。
大山の農業革命といえば、「ウメ・クリ植えてハワイに行こう!」というスローガンが有名である。しかし、それは大山の農業革命(NPC運動)の一面をとらえているにすぎないと三好氏は言う。

「江戸後期、大蔵永常が『広益国産考』の中で、郷里の日田郡から産出される換金作物を27種挙げて、その収量を2万7千余量と算定した(中略)。治美もまたウメとクリから始めてみたものの、それだけで増収にはならぬことを百も承知していた。ウメとクリには競争相手も多く、市場価格が変動することもわかっていた。そのため、彼が提唱したのが『ムカデ農業』である。少量生産、多品目栽培によって農家の余暇時間を有効利用することがねらいであった。特に重視したのは、順に、スモモ、ブドウ、ギンナン、ユズで、合わせて6種果樹にした。軽労働で労働のピーク時を重ね合わせない『旬給農業』と称した。加えて、『樹下栽培』と称して、クレソン、ニラ、アスパラガス、ミョウガ、セリ、サンショウなど、日々いくらなりとも収益になるものを奨励した。それらの産品は、『瞳は未来へ』と大書した農協のトラックで、福岡や大分の市場に出荷した」(『現代に生きる大蔵永常』)

三好氏は、大蔵永常と矢幡治美氏はともに「同じ天領日田に生まれ、山村住民の貧しい暮らしを知悉していたこと、そこから抜け出せるために何か良策はないかと思索したこと、そのために全国各地を視察したこと」、そして最大の共通点として、「農業の世界に経済的合理精神を入れ込み、民富の向上を目標にしたこと」を挙げている。そのための手法も共通しており、米中心の農業からの脱却、換金作物の奨励、農産物を加工して付加価値をつけることの三つを推奨したのである。

 

◆6次産業化論の着想は大山の直売所から生まれた
この手法の3点目はさらなる展開を生む。大山の農業革命といえば、当時の平松守彦大分県知事の「一村一品運動」のヒントとなったことで有名だが、じつは農業の6次産業化論の発想の元も大山にあったのだ。
6次産業化論を提唱した今村奈良臣氏(東大名誉教授)は、三好氏の著書の推薦文のなかで、こう書く。
「1992年の夏、旗揚げして間もない大山町農協の農産物直売所『木(こ)の花ガルテン』に多彩な農産物や加工品を運び込んでくる農民、そこへ買いに来る主婦をはじめとするお客さんの行動を、約1週間にわたって農家に泊めてもらいつぶさに調査している中から『農業の6次産業化』という理論が私の頭の中でじわりと生まれてきたのである。……木の花ガルテンの活動の中から多彩な農林畜産物の生産(第1次)、それらの多彩な加工(第2次)、そして木の花ガルテンでの販売(第3次)という活動の調査を通して農業6次産業化論の理論は生まれたのである」

今村氏の6次産業化論は、大山で着想を得た当時は「第1次産業+第2次産業+第3次産業=第6次産業」という足し算で定義されたが、3年後に1×2×3=6の掛け算に変わった。その理由は「農業が無くなれば、0×2×3=0と6次産業化路線は無に帰するという警告と合わせて、より多くの付加価値を多彩な加工ならびに販売を通して生みだそう」と考えたからであった。

 

◆「6次産業化」は農業の復権運動
いま政府はTPP11や日欧EPAをテコに、産業間・企業間連携を促進し、海外市場を開拓しながら、地域の生産性を高め、地域経済の活性化につなげていくという。たとえば「総合的なTPP等関連政策大綱」(2017年11月24日、TPP等総合対策本部決定)には、「TPP等を通じた地域経済の活性化の促進」の中に、「地域リソース(産業資源)の結集・ブランド化」を掲げ、「6次産業化の推進等により、地域の産品、技術、企業等を連携、地理的表示(GI)等も活用しつつ、新事業を創出し、海外展開の拡大を促す」とある。そして「強い農林水産業の構築」の目標として掲げるのは、「2019年の農林水産物・食品の輸出額1兆円」である。これは農林水産業の強化策ではなく、むしろ食品産業の強化策ではないだろうか。
そもそも農業の6次産業化論が目指したものは何だったろうか。今村氏は2001年にこう書いている。

「いま、日本国民が外食なども含めすべての食料品の購入に支出している1年間の金額は、じつに80兆4000億円である。しかし、農業(水産業も含む)の受け取り分(シェア)は年々低下し、いまではわずか16%になってしまった。……16兆2000億円(うち国内生産13兆円、輸入3兆2000億円)の農水産物が食品製造業、卸売・小売産業などの食品流通業、外食産業を経る過程で、加工・調理されたり、他の資材が投入されることにより、次々と付加価値を高め、最終消費部としては80兆4000億円に達しているのである。このうちの国内生産分の13兆円(水産物も含む)は80兆4000億円に対してわずかに16%にしかならない。このことをさらにわかりやすく表現すれば、消費者が外食も含めて100円の食料品を買ったときの農業(水産業を含む)の取り分はわずか16円ということである」(今村奈良臣「農業6次産業化の意味と食品加工・販売の基本戦略」『食品加工総覧』共通編第1巻、農文協)

農業が食料品の原料供給者の立場に甘んじるのではなく、第2次産業(食品加工など)から第3次産業(販売、外食、情報、観光など)まで含む農業の6次産業化を図り、「地域農業の総合産業化」を通して地域の活力を呼び戻す――農業の6次産業化とは、農家・農業の復権運動であった。それこそが「強い農業」といえるのではないか。

大蔵永常の『広益国産考』の「国」とは藩を意味していた。永常の特産奨励は、藩における生産と暮らしを豊かにしていくことをめざしたものであり、他国(藩)に特産物を売って儲けることを一番先には置いていない。
「まず、その国で生産しないために他の諸国から購入している出費を防ぐことを考え、さらに、適当なものがあれば作って他国に出荷し利益とすることを考えるべきである。米穀の次になくてはならないものは、第一に蝋、油、畳表、醤油などである」(『広益国産考』日本農書全集14)。このすぐあとには、「醤油を自家醸造するより買ったほうが得だという農家がいたが、私は熟考のうえ、家で造って使うほうが得だという結論に達した」とも書いている。
まずは農家一戸一戸の自給があり、その上に地域や国の自給がある。そのために、各家・各地域・各国の条件を見直し、適切な作物を栽培し、加工も手掛けていく。他国への出荷、販売を考えるのは、エネルギーを含む衣食住のベースを地域資源によってまかなったうえでのことである。

大蔵永常が示した国富と民富を共に高める道=「広益国産」の基本思想はこのような重層的な自給のすすめなのであった。 (農文協論説委員会)

以上転載終了

投稿者 noublog : 2021年04月15日