2021年4月23日

2021年04月23日

現代の若者宿をつくろう・・・・宮本常一に学ぶ「自然とともにある“開かれた村”」

今回の紹介は、民族学者:宮本常一氏の活動の紹介である。(この特集は、7年前の農文協の特集記事)

農業の6次産業化を推進した今村奈良臣氏から30年前、宮本氏は、当時の多くの農村を訪れ、「開かれた農業・農村」では、活力が生起し、その結果、生み出された農村主体の様々な営みは、新しい生き方(=産業)に繋がるという事を当時の若者と接しながら実現したのである。

農業の6次産業化の神髄。前回紹介した 江戸時代の農学者:大蔵永常から更に繋がる形として 地域とそこで活動する若者の力の可能性。そこには「自然と共にある開かれた村」というまさに自然の摂理、生態系に同化した姿、そして人間の営みの地に足のついた姿を見ることができる。

今回は、少々長くなりますが、事例を交えながら、現在の農業改革にも繋がる可能性として、発信したい。では・・・・【リンク農文協2013年11月号 

転載開始 

◆民俗学者宮本常一のもうひとつの顔

宮本常一――瀬戸内海に浮かぶ山口県周防大島に生まれ、戦前戦後、日本の農山漁村をくまなく歩きまわり、地域の生業や文化、人の生きざまや村のありようをつぶさに記録し、膨大な著作を書き残した民俗学者。生涯に歩いた距離は地球4周に及ぶといわれる「歩く巨人」。

その宮本常一には別の顔がある。実践者としての顔だ。

「宮本は離島振興に情熱を傾けるオルガナイザーであり、すぐれた農業技術指導者でもあり、地域芸能の発掘、育成を通して地域活性化をはかるプロデューサーでもあり、既成概念にとらわれない手づくりの組織で若者たちに生きがいを与えたユニークな社会教育者でもあった」(佐野眞一『宮本常一の写真に読む 失われた昭和』平凡社)。

このたび農文協から発刊された『宮本常一講演選集』(全8巻、9月から隔月刊行)からはこうした多面的な実践者としての顔を読みとることができる。宮本は乞われるままに全国各地で講演をし、手ごたえのある地域は繰り返し訪ねて、その地域の振興に深くかかわっていた。昭和30年代から50年代にかけての講演を収録した本選集からは聴衆を時に笑わせ、時に叱り、時に鼓舞する――そんな生身の人間としての宮本常一が浮かび上がってくる。

なかでも第2巻『日本人の知恵再考』に収録された「現代の若者宿を求めて」(昭和51年の講演)には農業の革新や、若者の育成、農業をベースにした地域振興についての考え方がよくあらわれている。講演の筋を追ってみていこう。 

 

◆明治の農業改良は農家のネットワーク力で実現した

宮本はまず幕末から明治時代までさかのぼり、村社会がけっして閉鎖的ではなかったことを説き起こしている。

「日本の農村社会の大きな特色は、隣の村とはあまりつき合わないが、遠くへは出ていくことなのです。(中略)ひとつの部落をとって三代前くらいまでさかのぼって調べてみると、樺太、北海道、満州、東京へ行っている。つまり部落ひとつが、ずいぶん広い社会につながっていることがわかりました」

なかでも年間400万人もの人が移動した伊勢参りは民衆の交流の機会であり、農家は道中、農業や暮らしの革新につながる何かをつかんで、お土産としてもちかえった。

明治の老農として知られる奈良の中村直三は伊勢参りの人が行きかう参道近くの田んぼでさまざまな品種のイネを育て、それを見て感心する農家に種籾をもたせてやった。知り合った人のいる村に出かけて「農談会」を開き、ファンたちによる試作田が全国にどんどんできていく。こうして、奈良の小さな村の片隅から始まったイネの品種改良運動が大流行し、明治の農業を根本から変えていく。

一方、福岡の林遠里は抱持立犂を開発し、勧農社という私塾を起こして犂を使える人を育てては、それまで犂耕が発達していなかった東日本にせっせと送りだした。この犂が有効に使える田んぼに改良するために耕地整理法ができて、日本の水田の乾田化がすすめられていった。

「犂の改良は、林遠里の弟子たちが郷里の福岡で一生懸命に研究して、新しい短床犂を考えつくのです。ところが東のほうでも長野県の松山原造という人が床の短い犂を考えつくのです。ぜんぜん別のところから同じようなものがちゃんと起こってくる」

農業技術には伝播性があり、また、農家の共通の願いを背景に同時発生的でもある。これに対して、農商務省が直輸入したプラウはウネを立てることができなかったために、北海道には入ったが、本州では普及しなかった。硬直的な官製技術は大して役に立たなかったということだ。

「日本に短床犂や二段犂などが広がっていったのは、日本政府の指導ではないのです。民衆の知恵なのです。そういうことは、皆さんが勉強される書物にはあまり触れられていません。全部役人の功績になっている。日本の米が今日のように増えてきたのは、このように民衆がそれぞれの土地に合うものをみんなで話し合ってつくり出していったということがあったからなのです。けっしてひとりが自分の知恵を押しつけたわけではないのです。なんとかして、わたしはそういう歴史を書いてみたいと思っています」

 

◆現代の若者宿は可能か

さて、ここからがいよいよ若者宿の話。じつは宮本自身が同じように農業技術を伝える役割を果たしていた。

「わたしが全国を歩きはじめた頃には、そういう例がいたるところに見られました。だからわたしなども農業技術を通して村々を歩くことができたようなものなのです。こちらで新しい農業技術を勉強して、あちらに行ってそれを伝える。そしてうまくいくと『あれは偉い先生だ』ということになる。しかし、わたしはちっとも偉くないのです。伝書鳩みたいなものなのです」

その「伝書鳩」が大きな役割を果たせたのは、西日本では若者宿が形を変えながらまだまだ生き残っていたからだ。若者宿がなかったところ、廃れたところでも、若者に活力があれば、それを生み出す動きが生まれてくる。

佐渡の羽茂町(現新潟県佐渡市)では村農会技師・杉田清が八珍柿(「おけさ柿」・平核無)の普及をすすめており、宮本はこれを全面的に支援していた。ところが柿をすすめたいのはおやじ世代で、納屋を借りてエレキギターを夜通しかき鳴らしていた若者たちは酪農をやりたいといい出して、世代間の大論争になる。宮本は「両方やってみたらいいではないか。若い者は若い者でやってみたらいいではないか」と助言。結局酪農は続かなかったが、次に宮本が講演に行ったときには若者が130人も集まったという。

「みんな百姓するのか」と聞いたら、「やる」という。できれば開墾して経営規模を拡大したいという。だがおやじたちは「いまどきの若い者は腰抜けで百姓する気なんかありはせん」と、はなから相手にしない。そこで宮本がどれくらいほんとうに百姓をやる気がある者がいるのか、アンケートをとってみると、300をこえる若い人たちが百姓をしたいと思っていることがわかった。それだけ多くの若者が集まるとなると納屋ですまなくなって、町長にかけあい、公民館を建ててもらうことになった。その後、羽茂では柿が米の生産額を追い越すほどの主産物になっていく。

一方、隣町の小木町(現佐渡市)宿根木は70戸ほどの集落だが、宮本の提案で、大正9年に建てられた宿根木学校の校舎を活用し、3万点もの農具、漁具など民俗資料を集めた民俗博物館(現・佐渡国小木民俗博物館)ができた。宮本たちに感化された村の若者たちが、家々で眠っていた民具を持ち寄ってつくった手づくりの博物館である。

そんななか宿根木の5人の若者が若者宿をつくろうということになって、民家を借りた。いなかの家なので広いスペースがあり、ここに民俗博物館を訪れた全国の若者などが泊るようになり、交流が生まれていく。

「そんな具合にして、そこでごちそうになってしばらくしたら、『先生、帰ってくれ、邪魔になる』と言われ、わたしは民宿に行って泊ったのですが、彼らはそこで夜を明かしているのです。そのとき、これはおもしろいなと思いましたのは、そこで使う食器は彼らのなかのふたりがロクロをまわして自分たちでつくっている。いいですね。下手くそだけど。悪口が言えるから具合がいい。百姓は百姓だけしかやってはならないということはない。ロクロをまわしたり竹細工をしたりするのは、いいじゃないですか。そのときも若い者が竹細工をやりたいと言っていましたが、そんなふうにして若者が集まる場所ができると、いろいろな知恵や計画がいっぺんに発酵してくる」(傍点引用者)

宿根木の若者の一人は宮本によくかみついてきた人だが、「君がひとつのことに突っ込んでいったらすばらしいことができる。ここは漁具がたくさんあるから、それを集めて解説するくらいになってみろ」と励ますと、佐渡の南海岸を歩いて、古い使わなくなった漁具などを千数百点も集めた。その民具は「南佐渡の漁撈用具」「船大工道具」として国の重要有形民俗資料に指定された。

若者は「おれでも“国宝”をつくることができる」と驚くとともに自信をもち、その後は佐渡の新しい特産品開発に意欲を燃やすようになったという。

いまや佐渡を代表する農産物となった八珍柿と観光資源ともなった民俗博物館は、宮本がかかわり現在まで続く成果としてよく知られたものだ。 

 

◆“開かれた村”には若者が発酵する場所がある

この講演から学ぶことは何だろうか。ここには、地域で暮らしをつくっていく若者、そしてそんな若者を育てていく人々への熱いメッセージが込められていると思うのだ。

日本の村はもともとけっして閉鎖社会ではなく、外に向けて開かれており、自主的・自営的に農業技術や暮らしを革新するネットワーク力をもっていた。そのような革新の原動力ともなる若者の発想を押さえこんではならない。若者宿とは昔から若者が羽目をはずしながら、結束力を高め、その発想を豊かに“発酵”させていく場所である。そのような場所を、現代農村においてどうつくるかがいま、問われている。

その際、宮本が講演した時代とちがって、現代では「村の若者」というものをもう少し幅を広げてとらえる必要がある。家から離れて暮らし、ときどき帰ってくる息子や娘、Uターンや定年退職で村に帰り農業を始めた人、Iターン、地域おこし協力隊、集落支援員などよそから移り住んできた人、これらの人はみな「村の若者」である。そしてまた「村の若者」はみな優れた「伝書鳩」としての資質を備えている。

こうした「村の若者」を「新規就農者」というような狭い枠に押し込んではいけない。それでは所詮、産業競争力会議の面々のいう「企業の農業参入」以上の発想は生まれてこないからだ。宮本はこの講演の冒頭でこう述べている。

「いま、わたしが折にふれて若い人たちにいっていることは『就職するな』ということなんです。とにかく就職しないで暮らしてみると、なんとか食えるものなんです」

「大きな機構のなかのひとつの機能として動いておれば、自分の給料は上がっていくのですから、社会が完全に官僚化してしまう。官僚というのはなにも役人だけではないのです。会社がそうなっているといえるのではないでしょうか。現在そういうきざしが見えておりますけれども、そういう時代から次の時代に変革するのに、わたしは2世代かかると見ています。いま育っている人たちの時代でも駄目。もうひとつ次の世代の人たちによって、ほんとうのものがつかまえられるのではなかろうかという感じがします」

いま農家のあとをつぐ若者や農村に入っている人は、ほとんどは役所や会社の歯車になりたくないという人ばかりだ。まさしく「ほんとうのものがつかまえられる」世代が、いま農村に育ってきているのである。 

 

◆自然の側から人間を見る 「柔社会」としての自給社会

それでは、宮本のいう「ほんとうのもの」とはなんだろうか。それをひと言でいえば、「自然の側から人間の暮らしを見る」ということだ。この点は本選集の「生活文化研究講義」(第1巻収録)に詳しい。そこには日本の生活文化や伝承技術の根幹にかかわる知見が凝縮されている。

たとえば「繊維と染織」では、日本人の生活文化の基本を「茎皮繊維」というキーワードでダイナミックにとらえていく。衣についていえば、貴族は早くから絹を利用しているが、庶民はずっと藁、麻、カラムシなどの茎皮繊維を身にまとい、それは江戸時代に綿が入るまで続く。茎皮繊維で住もまかなった。稲の茎である藁は蓑や藁靴、草履、草鞋など身にまとうだけでなく、壁土、筵と藁蓋、畳など、住まいやインテリアのあらゆる場面で使われている。

この講演録を読んだ法政大学教授の田中優子氏は「自然の側から人間を見た人」と冠し、「宮本常一は布を藁の話から始めた」という書き出しで、この講義のエッセンスを簡潔にまとめている。

「人間の衣類を食べ物と切り離してはならないし、それは道具や住まいとも、素材において同根なのである。人間は本来、自分がいる環境から恵みを得て生きてきた。それを食べてきた。食べ物を栽培あるいは育成するようになったとき、食べられない部分があれば、それを棄てずに着る物や住まいや生活の道具にしてきた。衣食住を同時に育てるのである。これほど合理的なことはない」

自然の側から考えるとは、食をベースにして素材を生かす技をはりめぐらせ、自給社会を実現することだった。その素材とは米食日本では藁であり、肉食ヨーロッパでは皮革となる。しかし、皮革とちがって藁は加工に刃物を必要としない。そのことが闘争的でない「柔社会」のもとになり、技術の伝承に特別な師弟関係を必要としないことが、日本人の器用さのおおもとになっていると宮本は考える。

「日本の村構造の基本において、たいへん柔軟なものを持っておったことが、日常生活のなかにそのまま出てきて、自分の手でできるものは自分らでつくり上げていくという、いわゆる自給社会が成立していた。自給社会というものはそういう柔軟な社会の環境がないと出てこないものなのです。誰かに統一せられている社会では、むしろ逆のものが生まれてきます」(「柔社会を生み出したもの」第1巻収録)

日本の村社会では、明治の農業技術の伝播でみたように、地域自然を生かす方法を、他の地域の人から学んでいた。イネの品種も犂耕も、他の地域と交流しながら自分の地域に合うようになじませていく。そのような開かれた柔社会でこそ自給が実現するのだ。それを現代技術をも駆使して衣食住で展開することが、「百年後の人たちに誇りうる真の文化」の創造につながるのである。

 

◆外とつながり、価値と雇用を生み出す

震災からの復興や地域再生も、このような自給に基づく文化の創造と切り離して考えることはできない。

佐渡の羽茂町と並んで、宮本が繰り返し講演に出かけたのが山古志村(現新潟県長岡市)であった。本選集には昭和53年に4日間にわたって行なわれた講演が収録されている(「活気ある村をつくる」第5巻収録)。そこで宮本はこう述べている。

「現在村を支えている青年層や壮年層の人々が中心になって、息子や孫の時代の基礎づくりをする」

「山古志は恵まれた自然、錦鯉、牛、文化財など、観光あるいは産業として発展させることができる要素をたくさんもっておる。これらの地場産業をいかに発展させていくか、お互いに関連づけ、雇用の機会を増やし、それによっていかに自分たちの生活向上に役立てていくか、そういったことを、『核』つまり共通の目的をもった仲間をつくって問題に取り組んでいくことが、今の山古志では大切なんです」

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宮本はこの講演でさまざまな具体的な提案もしている。畜産は濃厚飼料に依存せず、飼料自給の基盤をつくること、安易な工場誘致をしないこと、錦鯉を生産するだけでなく、錦鯉の文化を日本に広め、「錦鯉の里」として山古志の名を売ること、模型づくりや民具の保存によって山古志の風土と文化を見直すこと、山や農業の資源に誇りをもち、それを価値化して観光とつなぐこと、その観光の基礎には風景と特色ある食があること、などなど。いずれも思いつきではなく、長年通い続け、住民と膝をまじえて話し合うなかで形にしてきたことだ。

山古志村はこの講演が行なわれた26年後の平成16年10月23日、中越大震災に見舞われ、全村民避難を余儀なくされる。その山古志村が多くの困難を乗りこえて、牛の角突き(闘牛)や棚田での米生産や錦鯉生産を復活させていったベースには、宮本が繰り返し説いたふるさとの自然と文化への誇りと、それを「息子や孫の代に引き継ぐ」強い意志があったに違いない。

以上転載終了

投稿者 noublog : 2021年04月23日  

2021年04月23日

農のあるまちづくり10~テレビマンが農業に転職したわけⅣ.

【農のあるまちづくり9~テレビマンが農業に転職したわけⅢ.無知の自覚がもたらす活力】
に続いて。

都市農業の本質を考える。

 

以下、転載(「東京農業クリエイターズ」2018著:小野淳)

(さらに…)

投稿者 noublog : 2021年04月23日