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2020年01月23日
農と全人教育4~地域の自然・風景・山河を守るために
ドイツ人の意識に芽生え始めた、百姓は地域の自然・風景を守るという役割も担っている、という認識。
カネに代えられない課題を担う百姓に国民は感謝し、守り育て続けるために、彼らは野菜を買う。
以下、転載(農本主義が再発見されたワケ 著:宇根 豊)
おカネにならないものの価値を評価する仕組みをつくれるなら、資本主義はもっと続くかもしれないし、永続してもいいと思います。でも、つくれないのであれば、農業の半分を資本主義から外して、別のシステムで支えていくことも真面目に検討していいでしょう。
その一つの方法が、百姓への「環境支払い」(直接支払い)です。EU(欧州連合)諸国では、百姓の所得の七十数%は直接支払いです。個人的にも調べましたが、ドイツでも50%を超えています。それは言ってみれば、農業の半分以上は資本主義から外して、あとは国民負担つまり税金からまかなうということです(日本では百姓の所得に占める農林水産予算の割合は約16%です)。
直接支払いというと、日本では「それは生活保護に近いのではないか」という見方をする風潮が、おおいにあります。私がドイツに行ったときに、ドイツの百姓にもだいぶ聞きましたが、そこでもやはり「最初は嫌だった」と、みんな言っていました。自分の力で稼いでいくというのが本来の(資本主義的な)経営だという思いがあって、なんとなく助成金とかで直接所得を補償されるということに抵抗があった、と。でもそれは、やはりカネにならないものが評価されないうちは、そう思ってしまうのは当然でしょう。「この支援金は、カネにならない自然環境や風景を守っている対価として国民が払うのですよ…」という共通認識が世論となれば、受け取る百姓も税金を納める国民も納得できるはずです。
私がドイツにデカップリングの調査で行ったときのリンゴ農家の話を紹介しましょう。EU内は国境で関税がかかることはありません。農産物の輸出入は自由化されているのです。ドイツにも、安いリンゴやリンゴジュースも国外からいっぱい入ってくるので、危機意識を持っていました。そこで村で共同のリンゴジュースのプラントを建てて、リンゴジュースを直販していました。そのリンゴジュースが飛ぶように売れていたのですが、「あなたたち日本から来た人たち、なぜこんなに売れているかわかるか」と聞かれたのです。私たちは学者も含めて6人の調査団でしたが、ごちそうになりながら一生懸命答えるわけです。
そのとき、われわれ日本人の発想・価値観は時代遅れだな、と感じました。リンゴジュースを、経済価値で考えてしまうからです。「おいしいから」とか、「香りがいいから」とか、「無農薬栽培で安全性が高いから」とか、あるいは「特別なしぼり方をしているんじゃないですか」「栄養たっぷりなんじゃないんですか」「パッケージがいいからじゃないか」とか。もちろん、それらも要因としてあるにはあるでしょうけど、でも、全部ハズレです。その百姓が言うには、消費者は「このリンゴジュースを買って飲まないと、この村の美しい風景が荒れ果ててしまう」と言って買っていくのだそうです。つまり、この村のリンゴジュースを買うということは、この自然、この風景を守っているんだ、という意識が消費者に育っている。
私はすごいと思って、「ドイツって昔からそうだったんですか?」と聞いたら、「いや違う」と。やはり20年前ぐらい前からそういう価値転換が、百姓の中からも消費者の中からも出てきたというのです。つまり、経済価値だけで考えるなら、この村の風景は守れない。何よりも村の風景は百姓だけのものではなくて、消費者のものでもあるんだという価値観が、国民全体に広がってきているのです。
ドイツの場合、農家民宿とか農家レストランもどの村にもありますが、夏は夜の9時くらいまで明るいということもあって、けっこうな数の町の人が遊びにきています。また驚くのは、農村部には荒れ地(耕作放棄地)がまったくないことです。「ああ、そうか」と私は思いました。この国では、そこの自然、風景、山河が百姓だけのものではなく、また地域の人間だけのものでもなく、国民全体のタカラモノになっていて、農業にはそれを守る役割と義務があることを認知させようとしている。まだ完璧にはできていないけど、農業を資本主義の仕組みの中から半分を外に出すということは、まず一つに国民の支持がなければ無理だということです。そのうえで、具体的な政策が必要なわけです。
その具体的な政策も、私はドイツで見てきました。バーデン=ベルテンベルク州には、自分の草地に、野の花が28種の指標種のうち4種類以上咲いていれば、「環境支払い」が受けられる政策メニューがあります。ドイツ国内でも評判がよくて、私もこれが一番すごいと思いました。実際に探してみると、ほったらかしの草地も、刈りすぎているところも見つからない。ほどよく1回2回刈っている草地では、どこでも4種類以上の指標種の野の花は、きちんと咲いていました。
これは生態学的には「中程度攪乱説」で説明できます。過度の刈り取りは、攪乱が大きすぎて、野の花の種数は激減します。また一方で放置すると、強い草ばかりが残って、これもまた全体の種数は激減します。適度に草刈りしていると、中程度の攪乱が起きて、強い草は抑えられ、弱い草が生き残り、全体として種数は増えるのです。つまり生物多様性が確保できるというわけです。日本では畦草の草刈りがよく似ています。私の村では、年に4、5回刈っている畦は200種ほどの草が生えていますが、放置した田んぼの畦では50種ほどに減っています。
この政策のすごいところは「指標種」を定めているところです。野の花なら、何でも入れられているのではなく、ありふれたどこにでもある花や、逆に滅多にないような花は除いてあります。つまり「指標種」とは、それなりに手入れしているところに咲く花だけが指定されているのです。そのうち4種類(この種数にも根拠がありました)があるということは、指標以外の草の生物多様性も確保できるというわけです。
投稿者 noublog : 2020年01月23日 TweetList
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