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2011年11月19日
農から始まる日本の再生シリーズ4.~先人に学ぶ食の有り様<お米編>~
米の歴史は、そのまま日本人の歴史になると言われているほど、米は私たち日本人とは切っても切れないものです
先人に学ぶ日本の食。今回は日本の農と食の中心でもあるその「お米」について。これからの日本の農業を考えていく上でも、白米がどのように私たち日本人の主食になってきたのかを歴史を追って探っていきたいと思います 😀
日本人の主食といえばやっぱり白米。炊きたての白いご飯は本当に美味しいですね♪
お米はまさに、日本人にとってのソウルフード☆
でも、その白米に対するわたしたちの価値観。この日本人なら誰もが信じて疑わない、主食は「白米」。これがなんと、歴史的にみると誤った事実だって知ってました?
「え~!!」
そう、白米は日本人にとって長い長い間、主食ではなかったのです!
「ウソや、弥生時代から日本人はお米食べてたやん!」
そう思うでしょ?
つづきが気になる方はポちっとね↓
「赤い米」からはじまった日本の稲作 縄文時代・弥生時代
もともと日本人には「白米」を食べる習慣がありませんでした。とはいっても、それは2500年以上も大昔の話。縄文時代の人々は木の実を中心とした採取生産で暮らしていました。もちろん縄文後期~弥生時代にかけて、日本で稗・粟・米などの農耕栽培が始まり、お米を食べるようになっていったのは皆さんご存知のとおりです。
最新の研究では、弥生時代よりも前、縄文時代の末期に稲作が始まっていたことがわかっています。岡山県の遺跡から紀元前1000年の土器のかけらが見つかり、そこに稲の籾のあとがついていたのです。さらに青森県の遺跡からは今から3000年前の稲も発見されています。
それは陸稲(おかぼ)といわれる、田んぼではなく畑で取れる「お米」。しかも、最初はモミのまま、そのまま焼いて食べていたのだそうです。ポリポリ。
赤米 黒米
そして、その「稲作」で作られていた「お米」は私たちのよく知っている白米ではなく、赤米や黒米や緑米など色の付いた「お米」(=古代米と呼ばれるもの)でした。
中でも「赤米」は日本のお米の元祖といわれており、その赤米が作られ始めると米はたいへんなごちそうになりました。古代人はこれを神様に供えて、祝い事の時にしか食べなかったといいます。この風習は現代まで伝えられ、その風習に則って今でもおめでたいことがあると私たちはお赤飯をたいているのです。(アズキ入り赤飯は、赤米ごはんに色と味を似せるためにアズキを使っているのですね)
弥生時代になると、いよいよ水稲による稲作がはじまります。つまり田んぼでお米をつくるようになりました。赤米は冷たい水がかかる水田で作っても、肥料を減らして作っても、よく「くき」が増えて米が多く取れたからです。高温多湿で雨量が多く湿地の多かった日本では、そんな場所でもよく育つとても優れた作物だったのです。
(この赤米は冷害に強かったほかに、干ばつや病気にも強かったので、後に白米生産が増えていっても、江戸時代あたりまでは、全国でかなり作られていました。たとえば、江戸時代の九州では30~50%は赤米であったといいます。)
では「白米」はいったい何時からどのように登場したのでしょう?
供物・神食としての白米食の登場 古墳時代・飛鳥時代
2006年に、白い米は遺伝子の一部が欠損した赤い米からつくりだされたことを、農業生物資源研究所が稲の全ゲノム情報を解析して突き止めています。つまり、もともと赤い色をしていた米の遺伝子に変異が生じたのを、人が選別・育種し「白い米を作り出した」ことが明らかになっています。
時代的には古墳時代3世紀後半~7世紀末。この時代はヤマト王権が地方豪族を服属させ倭の統一政権として確立してゆく時代。この時代に、鉄器の農具や新しい水田造成技術が導入され、大型水田が登場し、新田開発もずいぶんと進みます。同時に、日本人の信仰の在り方も変容し、神様への捧げものであった貴重なお米も、それまでの「赤米」から、「白米」へとこの時代に変化していきます。
日本最古の歴史書・古事記の記述によると、日本は「豊葦原の瑞穂の国 (とよあしはらのみずほのくに)」とされています。それは、もちろん言葉のとおり豊かに葦が生い茂り、稲穂がみずみずしく実っている国。日本を表しています。そしてその神話の中で、天照大神は天上の稲穂を日本の地に授けます。この稲穂は高天原の田で作り、天神が召し上がっていた神聖な稲でもありました。
皇祖天照大御神は天孫降臨の際、
『斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅 皇孫に稲穂をお授けになり、『大切に育て継承しなさい』
と神勅を下されました。
この天照から授かったとされる「天上の稲穂」こそが、おそらく「白米」であったのだろうと思われます。神道では「白」は神様を象徴する色であり、今でも神事に多く用いられている「特別な色」でもあるからです。
実際に白米食は天皇・皇族の食事としてはじめて登場します。古墳時代の仁徳天皇時代には既に屯倉春米部という脱穀・精白を行う官職が置かれていたことから、少なくとも4世紀には精米白米食が行われていた事が分かっています。
もちろん当時の技術では、白米の栽培や収穫や脱穀には大変な手間と時間がかかるので、始めは天皇・皇族以外はとても口にすることはできないとても貴重な食べ物でした。
★白いご飯の始まりは、天上の稲に由来する神様の子孫=天皇・皇族だけが食べることができたセレブ食だったのですね。
貴族食としての白米食と脚気の流行 奈良・平安時代
やがて奈良・平安時代になると、稲作技術の進歩や水田の拡大によって生産量が増え「白米食」は貴族層にまで広がります。
「和名類聚抄」という平安時代中期に作られた辞書には、「ましらけのよね」=よく搗きあげた精白米のこと。(しらけのよね)=ふつうに精白した米。(ひらしらけのよね)=身分の低い者が食べた黒米。との記載がちゃんと残っています。
しかし意外にも、この白米中心の食事が皇族・貴族たちに思わぬ災いをもたらすことになりました。
平安時代以降、京都の皇族や貴族など上層階級を中心に脚気(かっけ)が流行します。
脚気とはビタミンB1の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす病気です。そのビタミンB1欠乏の原因になったのが、実は白米食だったのです。「白米」は精米時に玄米から「糠」(ヌカ)を取り除くのですが、この糠にビタミンB1が多く含まれていたからです。皇族・貴族たちは美味しい白米食と引き換えに、なんと健康を阻害し寿命を縮めてしまっていたのでした。
★「ましらけのよね」なんとも良い響きの言葉ですね。それにしても、白米食がセレブの健康を損ねる原因だったなんて驚きです。もちろん、この時代の庶民は白米食ではないので、脚気にはならなかったそうです。
武士食としての白米食が始まる 鎌倉・室町時代・安土・桃山時代
鎌倉・室町時代 貴族にかわって武士が主導権を握った時代です。関東や東北の各地で大規模な開発が行われ、1年に2度作物を収穫する二毛作も始まりました。けれども武士は戦にそなえて健康重視で質素な生活を重んじていたので、玄米を食べていたようです。やがて安土・桃山時代になると武士による農業の技術向上が引き続き行われ、同じ面積での収穫量が奈良時代の2倍にまでなりました。この時代になると徐々に武士の間でも白米食が広まっていきます。
町民食としての白米食が流行、そして「江戸わずらい」が発生 江戸時代
江戸時代に入り、石高に応じた米扶持の支給。徐々に新田開発が進み米の生産量がUP。同時に水車の普及で脱穀技術が発達して武士階級ではほぼ白米が主食になります。
江戸中期になると農業政策にも力が注がれ、田畑を拡大し、品種を改良していきました。特に八代将軍、徳川吉宗の時代、享保の改革によって米が量産されるようになりました。天保年間には国内の水田の面積が、奈良時代の3倍にまで広がります。
一方で、米本位制による米流通の発達と生産量UPから米の値段がどんどん安くなり、江戸庶民の間でも白米食が流行していきます。当時の田舎ものを江戸っ子が揶揄した川柳に「田舎ものは雑穀を食べる」というような内容が出始めます。同時に都市で武士・庶民の間で急速に「脚気」が発生し、『江戸わずらい』と呼ばれます。これも平安貴族と同様に脱穀により糠を排除してしまった白米が原因でした。もちろん田舎や農民ではとても稀な病気だったのです。
日本人の主食としての白米食へ 明治・大正・昭和
明治以降、農業改革が進み米の生産量は著しくアップしました。また人口が増加し、国民の生活レベルがあがったことにより、白米の消費量も飛躍的に伸びました。やむをえぬ場合のみの代用食として麦を使う以外は、日本人の主食は白米になって行きます。
まず1894年日清戦争の時、陸軍主導で「戦時陸軍給与規則」が公布され、戦時兵食として「1日に精米6合(白米900g)、肉・魚150g、野菜類150g、漬物類56g」を基準とする日本食が採用されます。同時にここでも兵隊の「脚気」による死者が大量に出て大問題となりました。
昭和初期 戦時中の国家による完全配給により、ついに白米が国民全般に普及します。ところが1939年(昭和14年)ここでもまた、国民の「脚気」増大に伴い「白米禁止令」が出されました。その後7分付きまでは許容され戦後まで続きます。
そして、戦後~高度経済成長期を経て、ついに白米食が全日本国民の主食となりました。
つまり、「白米」が安定した日本国民の主食になったのは、実は戦後の混乱期を過ぎた頃から最近までの50年程に過ぎなかったのです。
表にしてみました♪クリックで拡大します☆
稲作の必然と白米信仰
主食は、その地域に生活する人々が活動に必要なエネルギーを取るために食べているものです。現在の日本ではお米が主食ですが、ムギやイモ、トウモロコシを主食にする国もあります。基本的に国の主食は、その土地で栽培するのに最も適した作物が長い間に定着してきたものです。
稲というのは、気温が高く雨が多い、水が豊かなアジアの国々の気候・風土によく合い、たくさんとれます。日本は初夏には梅雨があって雨が多く、夏には気温が熱帯と変わらないくらいに高くなります。その日本の気候や風土が稲の栽培にはとても合っているのです。また、お米は毎年安定した収穫が得られ、長い間保存する事が出来ることも重要な要素です。
そのような意味において、稲作=「お米」が日本人の主食となったのは必然かも知れません。
けれども、冷静に精米されたえ「白米」に限ってお米の歴史を振り返ってみると、実は「精白米」の歴史は「脚気」との闘いでもありました。それは、本来の自然の恵みである栄養をそぎ落とし、見栄えと美味しさを優先する価値と病気との闘いでもあり、まさに白米信仰とさえいえる程です。
それは、見方を変えれば最も日本の気候風土にあった稲作を、2000年以上にもわたりより美しく、おいしく食べるために先人たちがお米の品種改良と工夫を重ね、増産体制を作り上げ、今では日本国民全員が主食として十分食べられるようになるまで、とことん「白米」=「精白米」にこだわってきた民族であるとも言えるのです。
★実際、天上の稲=白米は1600年以上の時を経て、今や全日本国民に行き渡っているのですから。では、これからの私たちとお米の関係はいったいどうなっていくのでしょう?
気になりますね☆ シリーズ5に続きます!
これまで、追求してきた内容はこちら・・・
農から始まる日本の再生シリーズ プロローグ1~再生の実現基盤を歴史に学ぶ~
農から始まる日本の再生シリーズ プロローグ2~農がもつ他面的機能が日本を再生していく~
農から始まる日本の再生シリーズ 3~先人に学ぶ食の有り様~
投稿者 kasahara : 2011年11月19日 TweetList
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