農業は脳業である14~アジアに学ぶ農業技術 |
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2020年10月15日
新・兼業農家論1~「つくる」ことしか考えられなくなった農家たち
【一億総百姓化社会のススメ~日々の暮らしの中に、『農』の時間を】
の実践へ。
まず、農家はなぜ「つくる」ことしか考えられなくなったのか?
以下、転載(「ビジネスパーソンの新・兼業農家論」2020著:井本喜久)
■農業だけでは食っていけなかった
「兼業農家」って聞いたことあるかな?兼業農家って、農業だけでは食っていけないから、別の職業に就きながら農業もやっていくというスタイル。それは本業が農業なのか、副業が農業かによって、第1種兼業農家なのか第2種兼業農家なのか、呼び名は変わるらしい。
僕の父親も地方公務員をやりながら、週末だけ農家として米作りをやっていた(このスタイルは第2種兼業農家なんだろう)。僕は子供ながらに「なんで父親はこんなにも儲からない農業をやっていくのか?」といつも思っていた。
でもそれは日本のどこにでもある話だったんだと思う。もともと日本人のルーツは農耕民族。現代の都市に生きるさまざまな職種の人たちも、二世代遡れば、だいたい農家なわけで、その人たちの親世代までは「先祖代々守ってきた土地だから」と言いながら、ビジネス関係なく農業をやって、それだけでは生計が成り立たないから、別の仕事もやりながら暮らしていた。それがこれまでよくあった兼業農家のスタイルだった。
そもそも農業人口は、終戦直後1946年は、およそ3,400万人いたのが、2019年には過去最低の168万人(20分の1)になって、そのうち兼業農家の割合はおよそ8割となった。もはや兼業農家じゃないと生き残れなかったのが日本の農業だったんだろう。
■生産するだけでは生き残れなくなった
明治時代とかまで遡ると、国民の8割が農民だった。そのころ農村には「地主」と「小作人」の関係が成り立っていた。地主は商売を担当して、小作人が農作業を担当した。それはずっと国全体としてはうまく機能してきたんだけど、地主と小作人の貧富の差は激しくなる一方だった。
当時は地主たちが大きな力を持ち、彼らの中で生まれた農林族議員の力も強くなる中、二度の世界大戦を経て、それまでずっと政府中枢の悲願だった「国全体としての食糧生産コントロール」をGHQの傘を借りてようやく実現させた。つまり地主と小作人の関係性を解体した。それが戦後の「農地改革」だった。国が地主たちの農地を安く買い上げ、小作人たちに安く売った。
これに小作人たちは喜んだ。自分たちの農地が手に入ったぞ~ってね。けど、彼ら小作人は商売のことがさっぱりわからない。農作物を作れたとしても、どうやって売ればいいのか、高価な農機具はどうやって手に入るのか、作物をもっと効率よく生産するにはどんな手段(農薬や肥料を使ったり)があるのかを知らない。
そこで登場したのが「農業協同組合(通称:農協=今のJA)」だった。農協の存在は、しばらくはうまく機能した。九州の片田舎で生産された農作物が、翌日には東京の市場で売り買いされる。そんなロジスティクスを構築して、国民へ食料を広く安定的に行き届かせた。そしてそれら農作物を生産する農家たちの生産性と暮らしの質を向上させるためのあらゆるサポートをしていった。
しかし、それはかつて小作人だった農家たちを「生産者」という立ち位置に追いやり、「作ることさえうまくやってくれれば、それ以外のことは考えなくても良いですよ!」という雰囲気を作り出してもいった。
そして、時代の流れと共に、少子高齢化や食文化の変化と相まって「生産者」としてだけやってきた農家では立ち行かない状況になってきたのが高度経済成長の時代。以降、兼業農家は増え続け、日本の農家のおよそ6割が年商100万円以下という壊滅的な状況が生まれたわけだ。
投稿者 noublog : 2020年10月15日 TweetList
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