農業は脳業である13~マニュアル化し尽せない全体性の中にこそ追求の真価がある |
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2020年10月08日
農業は脳業である14~アジアに学ぶ農業技術
たとえばベトナムの農業をみて「50年遅れている」と思ったら、
その目は節穴かもしれない、ということだ。
以下、転載(「農業は脳業である」2014著:古野隆雄)
物事は、できるかぎり広い視点に立つほうがよく分かる。合鴨水稲同時作も、アジアという広い視点に立つと、いろいろなことが見えてくる。
アジアには、水鳥との長いつきあいの歴史と伝統がある。私はアジアの水鳥文化をとおして多くを学んだ。鴨の品種、孵化技術、飼養管理法、料理法、アゾラ、魚、直播き…。ここでは、合鴨水稲同時作の交流をとおして見えてきたアジアの農業と、アジアをとおして見えてきた合鴨水稲同時作についてまとめたい。なお、アジアではアヒルが一般的だが、ここでは総称として合鴨水稲同時作と表記する。
■環境保全型農業の先進国アジアに学ぶ
炎天下、裸足で水牛を操り、黙々と小さな田んぼを耕し続ける若者。並んでおしゃべりしながら、田んぼの草を取る少女たち。何百羽というアヒルを竹竿一本で追っていく男たち。二本の櫂を胸の前で交差させて、体重を櫂にあずけるように、稲を積んだ舟を漕ぐ女性。水牛の背に乗って夕暮れの道を帰る少年。田んぼの神様にお供えをする老女。
私が見た村は必ず水路や池で囲まれ、アヒルが楽しげに泳いでいた。田んぼにはたくさんの魚がいた。人びとは水路の水を飲み、夕暮れには四手網で魚を獲り、夕食のおかずにしている。
アジアの多くの農業は、ゆっくりしたリズムの伝統農業だ。それに対して「まだ牛で田んぼを耕している。50年遅れている」というのが、日本人の平均的理解だろう。農業委員会の視察旅行でアジアに行った我が村の百姓衆も、異口同音に「アジアの農業は遅れている」と言っていた。
だが、本当に、そう単純に言い切れるのだろうか。実際にアジアの田んぼに立ち、農民たちと交流してみると、この見方の”おかしさ”に気づかされる。そして、深く考えさせられる。まず、それらを列挙してみよう。
➀アジアの国々には、それぞれ固有の歴史と文化と伝統がある。それを遅れているとか進んでいるとか、普遍的価値観で一律に判断できないのではないか。
➁近代化は、すべての人類にとって当然たどるべき道筋なのか。急激な近代化や市場経済の導入で、アジアの人たちは本当に幸せになるのだろうか。近代化こそ、自然環境を壊し、貧富の格差をより広げる原因ではないのか。
➂有限の地球で、ほとんどの発展途上国が先進国並みになることは本当に可能なのか。
➃日本がアジアの簡素な暮らし(シンプル・ライフ)に学ぶべきではないのか。
➄先進国が世界の資源の八割を使っている。日本の物質的豊かさは、アジアの貧しさの裏返しではないのか。
➅本当に、日本は豊かで、アジアは貧しいのか。そもそも豊かさとは何か。
➆便利な機械や資材などの近代技術に囲まれた日本の農民のほうが、アジアの農民より総体として忙しい。これはなぜか。
➇伝統農業をしているアジアの国々こそ、有機農業の先進国ではないのか。
➈日本は、アジアの農業に学ぶべきではないのか。
➉アジアの自然は本当に豊かなのか。食糧を自給せず、燃料として自国の薪を使用せず、木材やパルプの大半を輸入に頼っている日本のほうが、山の緑に恵まれているのではないか。
⑪日本の百姓もアジアの百姓も、交流して友達になれば、まったく同じ。だが、私たちは日ごろ、頭のなかに国境をつくってしまっている。そもそも国とは何か。
私たちは、アジアをとおして日本が見えてくる。アジアの農村を訪ねると、とても懐かしい気持ちになる。同時に、日本が農業近代化の過程で失ったものの大きさに改めて気づかされる。
近年、先進諸国の近代化農業は破綻をきたし、持続可能な農業に広く関心が集まっている。こうした流れを受けてか、農水省も環境保全型農業を提唱し、2006年には有機農業推進法が制定された。しかし、アジア諸国に対する日本や先進諸国の政府開発援助(ODA)は、相変わらず近代化農業を推進する方向だ。たとえば、日本政府はカンボジアに農薬と化学肥料を無償援助してきた(現在は中止)。だが、冷静に考えれば、環境保全型農業や有機農業を提唱する先進国こそ、数千年来続くアジアの伝統農業に謙虚に学ぶべきなのだ。ある意味では、アジアの発展途上国こそ「環境保全型農業の先進国」といえる。
■環境を保全し、増収する農業技術の確立
しかし、アジアの農村にも市場経済が浸透し、各国政府が進める「農業の近代化」のもとで、農薬や化学肥料が使われ始めている。このまま進行すれば、生存の根源である豊かな自然環境が壊され、先進国への経済的従属関係(貧困化)はますます深まる。水田の魚を獲り、水路の水を飲む自給的生活は、不可能になる。市場経済化の波を受けたアジアの農村が伝統的生活様式を続けていくのは、困難であろう。
一方で、アジアの多くの農民が満足に食べてこられなかったのも事実だ。私が初めてベトナムを訪れた1994年、北部と中部の農民は、「1年のうち10ヶ月しか米が食べられない。残りの2ヶ月はキャッサバやサツマイモを食べてしのいでいる」と言った。当時、世界第3位の米の輸出国であるにもかかわらず。
こうした状況の下で、世界の資源とエネルギーの大半を消費し、飽食している先進国が、「環境保全の大切さ」のみを発展途上国に力説しても、説得力に欠ける。環境を保全し、かつ”増収”する実践的農業技術の確立こそが、アジアでは求められている。
興味深いことに、ベトナムや韓国では、合鴨水稲同時作にそれぞれの工夫が加えられ、増収技術として広がっている。どこにでもいるアヒルと稲の結合によって、稲の収量が15~30%増え、合鴨肉が生産され、除草労働が節約され、農薬・化学肥料代も節約される。そして、収益は1.5~2倍になる。苦労して、手で草を取っているアジアの発展途上国においてこそ、合鴨水稲同時作の技術の効果は高いし、必要とされる。
アジア各国の伝統農業の交流の中から、自然と人間が調和する、真の循環永続型農業技術が生まれるだろう。合鴨水稲同時作は、そのささやかな一例にすぎない。
投稿者 noublog : 2020年10月08日 TweetList
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