『農村学校をつくろう!』シリーズ-4~生産と集団の力をバネにして、劇的に変化した子どもたち~ |
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2021年09月21日
【農の歴史】第3回 麦作文化と稲作文化
前回のブログでは、人類の農耕の起源に迫ってきました。
「肥沃な三日月地帯」が人類史初の農耕の舞台とされていますが、他の多様な地域でも農耕の発生を裏付ける証拠が見つかっています。
地域が変われば、当然、自然外圧(地形や植生)も変わります。今回は、西アジア・東アジアという、それぞれ違う地域で発生した農耕文化について、どんな違いがあるのか?→現代まで受け継がれる精神性を紹介していきたいと思います。
※地域ごとの農耕文化の歴史は、文献「農耕と文明/梅原猛、安田喜憲」を参照しながら紹介します。
◆西アジアの農耕文化―麦作の文化
西アジアの農耕文化はレヴァント地方から始まります。
「更新世終末の温暖湿潤化にともないパレスチナで森林が出現しその環境下で人々が定住集落を営みはじめたこと、定住集落という生活様式をもった人々の一部がレヴァント北部の草原地帯という異なる環境へ進出して食料資源としての草木類に着目したこと、そのなかからやがてムギ、マメという最も生産性、貯蔵性に優れた一年生草本の選択的利用を始めたこと、またそうしたなかから最初の栽培の試みが行われるとともにそれにともなって集落の拡大と社会の再構成が生じたこと」とまとめてあります。
もともとこの地方では狩猟を中心とした遊動生活を営んでいました。森林の出現に伴い定住生活の様式を身につけた人類は、草原にもその生活様式を適用するために農業を始めたようです。
※画像はシンジェンタジャパン株式会社のHP(https://infocp.syngenta.co.jp/brinds_top)よりお借りしました。
◆東アジアの農耕文化—稲作の文化
東アジアも、一般的に気候変動が農耕開始のきっかけとされています。起源地には諸説あり、中国の長江下流域説が有力ですが、湖南省や華北でも遺跡が発掘されておりイネ栽培の起源はさらにさかのぼっていく傾向にあるそうです。これらの地域も、森と草原、あるいは森と湿地草原という、異なる生態系のはざまであることが農耕文化を誕生させた重要な要素となっていることが指摘されています。
※画像は株式会社クボタのHP(https://www.kubota.co.jp/kubotatanbo/history/tools/transplanting.html)よりお借りしました。
◆麦作と稲作
どちらも気候変動がきっかけで農耕が誕生したことが明らかになりつつありますが、地域によって少しずつ地形や植生が違い、それが育てる作物の違いにも繋がっています。
一般的に小麦は乾燥地帯にも適応できる強い作物。稲は十分な水を要する作物とされています。それが民族ごとの労働観に繋がっているという指摘があります。
小麦は水が少なく、傾斜した地でも育てることが可能です。そのため、どれだけ耕地面積を増やせるかが生産性に直結します。一方稲は、多量の水が必要で、平らな場所でないと育ちません。日本の原風景である美しい棚田も、傾斜な土地を平らにして水を張っていますね。
簡単に言ってしまえば、稲の方が手間が掛かるのです。個人で土地を平らにして、水を引くのは至難の業で、周りの人との協力が欠かせません。また、定期的な水の入れ替えや苗代づくりや雑草刈りなど…生産意欲がなければ、とてもやっていけません。
これらのことから、小麦作の地域では「個人主義」や「奴隷制度、機械化(※耕地拡大が目的化し、生産意欲のない奴隷でもできるため)」が定着していくのに対して、稲作の地域は「相互依存性、集団意識」や「勤勉(※勤勉に働けば働く分だけ、生産性に直結するから)」が重要な規範となったという分析があります。
日本人もまさに、「集団意識の強さ」や「勤勉性」を海外からよく指摘されますよね。
もちろんこれも数ある説の1説ですが、私たちの祖先が大昔に築き上げた生産形式が、現代人の意識にも関係しているって面白い。それだけ人類にとって「生産」って重要な課題なのだなと思います。
次回からは、私たち日本人の農耕について、もっと詳しく追求していきたいと思います。
「縄文人は農耕を受け入れなかったって本当?」「複雑な地形の中でどうやって農耕していたの?」などなど、日本の農耕って追求ポイントが盛りだくさんなんです!
お楽しみに~^^
投稿者 ideta : 2021年09月21日 TweetList
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