| メイン |

2021年04月16日

農のあるまちづくり9~テレビマンが農業に転職したわけⅢ.無知の自覚がもたらす活力

【農のあるまちづくり8~テレビマンが農業に転職したわけⅡ.農業の創造力】
に続いて。

無知の自覚は、大きな活力源になる。
農業の生産現場に飛込み、肌身に掴んだ苛烈さと魅力。

 

以下、転載(「東京農業クリエイターズ」2018著:小野淳)

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

■農業生産法人の現場はエキサイティング
私が入社したのは、飲食大手のグループ会社が経営する農業生産法人でした。
すべての畑で、有機JASの基準にのっとった有機栽培で野菜を生産し、グループ飲食店だけでなく個人宅配や仲卸への出荷もおこなって、年々、規模を広げている真っ最中でした。
私の最初の赴任地は千葉県の南端、南房総。やがて農業がさかんな県北部(北総)地域へ移りました。どちらも管理する面積は10ヘクタール(10万㎡)ほどで、そこを3,4人の社員とパートさんで耕作します。私は、もちろん農業経験なしのド素人。大学は心理学科で、自炊もロクにしなかったので野菜の知識もほとんどありません。ほかの社員やパートさんも農業経験は浅く、文字通り悪戦苦闘の日々でした。
でも、ここでの経験が今の農業事業において、栽培技術面でも経営面でもベースとなっています。

テレビ制作現場も、薄給(テレビ局社員と制作会社社員では同じディレクターでも給与は雲泥の差です)と長時間労働でよく知られていますが、農業現場はそれを上回ります。
夏場は朝4時に出勤、灼熱の中での収穫・出荷・圃場(畑)の準備・事務作業・ミーティングを終えると、夜の9時過ぎなどということはざらです。また、冬は一転して長靴越しでも冷気で指が痛くなる寒さの中、氷の塊のような白菜を次々と刈り取り、重量級のコンテナを運搬し、日が暮れてから凍るような水に手を入れて大根やニンジンを洗います。外気が冷たすぎるので、袋詰め作業は5℃に保たれた野菜保冷庫のなかでおこないますが、「ここはあったかいね~」と思わず笑顔で言い合うほどでした。

常に時間に追われながら、頭の中ではひたすら生産効率を上げる術を考えます。睡眠不足でトラックや農耕車を運転するので、野菜や肥料を何度も路上にばらまきました。一度など、夜間のミニトラクター走行で一般車両に追突され、路面に頭を強打し危うく死にかけました。そんな危険とも隣り合わせの日々でした。

20代から30代前半の社員が中心の若い会社でしたが、体力まかせの悪戦苦闘にもかかわらず、農場の収支は厳しいものでした。「農業の明るい日本」などというものは想像しがたい現場で、これが農家なら、父親のこんな姿を見て跡を継ぎたいとは、とても思えないだろうと感じました。

しかし一方で、育つ野菜の姿は輝いていて、とれたての味は素晴らしく、初めて触れる農業技術も農村文化も実に刺激的でした。新興住宅地で育ち、都心で働いていた私にとっては「目からウロコが落ちる」体験の連続。農業現場の苛烈さも噛みしめながら、しかし「これはおもしろい!良い面も悪い面も含めて、多くの人に知ってもらいたい」と思うネタの宝庫だったのです。

まだスマートフォンも普及しておらず、SNSのように個人が気軽に発信できる環境も整っていなかった当時、農業現場と都会の暮らしの隔たりは、感覚的にも今よりずっと大きく感じられました。そうなると、メディア制作者として私が持っていた「お宝発見を大声で叫びたい」願望は、むくむくと大きくなっていくばかりです。

そうして転職先に選んだのが、川上(生産)から川下(小売や飲食)まで、小規模ながら次々とユニークな発信をしている農業関連企業でした。この会社が東京・国立市にあったことが、都市農業にかかわるきっかけとなったのです。

投稿者 noublog : 2021年04月16日 List   

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.new-agriculture.com/blog/2021/04/4798.html/trackback

コメントしてください