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2020年07月09日

農業は脳業である1~原風景

今から50年前、確かに存在した日本の農の原風景。

カネに代えられないこの価値を、これからの時代にどう再構築していくか。

 

以下、転載(「農業は脳業である」2014著:古野隆雄)

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■家族みんなで働く自給的生活
村は五つの池とそれをつなぐ水路で囲まれ、周囲に広がるさまざまな形と大きさの田んぼの中を幾筋かの用水路がゆっくりと流れていた。10世帯で、人口は約70人。用水路は素掘りの泥の溝で、ところどころ水辺に柳の木が植えられ、屈曲したところは石積みになっていた。

私が生まれた1950年から60年代初頭までの村の暮らしと風景は、いまとはずいぶん違う。当時はほとんどの仕事が肉体労働で、田んぼや畑ではいつも多くの人たちが働いていた。ここでいう村とは、福岡県嘉穂郡桂川町寿命の小さな集落である。
我が家の屋根は、夏も涼しい麦わら葺き。玄関の左側が牛小屋で、一頭の黒牛を飼っていた。田んぼや畑はすべて、この牛に犂をひかせて耕す。これが大仕事であった。とくに炎天下、泥田の中を牛を追って終日歩きまわる代かきは重労働であったようだ。代かきをする父の陽焼けした足に泥がついて、やけに細かったのをよく覚えている。

1980年ごろになって、あるおじいさんがトラクターで代かきしている息子を見て、こう叱咤激励したという。
「座っていて、代かきができる、遊びのごたる。なんぼでもできる。面積をもっと増やして、どんどんやれ」
水と泥でグチャグチャになった田んぼを歩かないでいいことは、革命的であったのだ。
田植えは、もちろん手植え。我が家では、県南の筑後地方から7~8人「田植えさん」と呼ばれる助っ人を雇っていた。苗取り、苗運び、苗配り、苗をまっすぐ植えるために棕櫚縄を引く縄引き、田植え…。とても忙しかった。いまのように軽トラックなどない。苗を入れた竹籠を天秤棒で担いで、6月の雨でぬかるむ道を伯父が運ぶ姿を、いまでもはっきりと思い出す。家族と合わせて14~15人が田植えにかかわっていた。
腰の痛くなる辛い仕事だったはずだが、なぜか陽気におしゃべりをしながら賑やかに働いていたのを覚えている。当時の田植えは、初夏の光のように明るい光景だった。田植えのときは必ず、鶏を3羽殺して食べた。もちろん、鶏は御馳走だった。

収穫作業も多くの人手を要する。鎌で稲を刈る。広げて乾かす。秋雨に稲穂が濡れないように、小山のように積み重ねる。晴れが数日続いたら、脱穀する。
脱穀作業は、稲を1ヶ所に集める仕事から始める。そして、集めた稲を父と伯父たちに手渡す。父たちがそれを脱穀機に入れる。脱穀したわらを遠くへ投げるのは、子どもの仕事だった。遠くへ投げないと、脱穀機のチェーンにわらがすぐに巻きついてしまうからだ。脱穀は、家族全員で協力して行う流れ作業だった。脱穀した籾は庭いっぱいに広げた筵の上で、何日間も天日でていねいに乾かした。雨が降り出すと大変だ。おとなも子どもも総出で筵をたたみ、急いで納屋に運び込む。
収穫も脱穀も長くきつい仕事だが、収穫の喜びと、米が売れて現金が入ってくる楽しみがあった。私が母に「グローブを買ってよ、かあさん。みんな持っとるばい」と言うと、母は必ず、「秋、米が売れたら買うてやるばい」と先延ばしした。当時の我が家の現金収入は、米と麦の販売によってのみ得られていた。

冬の農閑期は、裏山に薪を拾いに行った。北風が激しく吹く寒い日も、林の中は風があたらないので比較的暖かい。日ごろの燃料は薪か麦わらか木炭で、ご飯は麦わらと薪で炊く。その火でサツマイモやピーナッツを焼いて食べるのが、手伝いの楽しみだった。
週に1~2回、運搬用の大きな自転車に魚箱を5段ぐらい積んだ魚屋さんが村に来た。買うのはいつも塩鯖か塩鯨。外食は1年に1~2回、桂川町に近い飯塚市で、たいていかけうどんだった。お金をあまり使わない自給的生活である。
私は1965年に高校に進学するまで、自分でお金を出して物を買った経験がほとんどない。幼いころから、「金を使うのは悪いことだ」と祖母から教えられ、素朴にそれを信じていた。
身体を使うハードな仕事が多かったが、生活のリズムは実にのんびりとしていた。我が家には、テレビもラジオも本もなかった。夏の夜は毎晩、縁側にござを広げて夕涼みだ。月や星を眺めながら祖母の昔話に耳を傾け、私は月にウサギがいると本気で信じていた。

 

■絵日記はいつも魚獲り
まわりには、生きものの種類も数も多かった。たとえばトンボ。近年は赤トンボもめっきり少なくなったが、当時は立っていると顔にぶつかるくらい、たくさんいた。そして、銀ヤンマ、金ヤンマ、塩辛トンボ、糸トンボ、黒トンボ、…。魚の釣り糸につけた浮きの先に、糸トンボが飛んできてスーッと止まる。夏の早朝、小さな池の上を静かに飛んでいく糸トンボの美しさは、いまも忘れられない。

魚はどこにでもたくさんいた。田んぼの中にも、用水路にも、池にも。家の周囲には素掘りの泥の小さな下水溝があった。そこに台所からご飯粒や味噌汁の残りが流れていくと、6月にフナやハヤの稚魚が群がる。ドジョウもエビも、この小さな溝にたくさん棲んでいた。魚が湧く光景である。
私は1993年に、インドネシアにアヒルの調査に行った。ジャワ島の田舎のアヒル小屋の横に小川が流れていて、水草の中に手を差し込んでみると、手の中は小さな魚でいっぱいになった。私は長いあいだ忘れていた懐かしい感覚に、茫然と立ち尽くしていた。それこそ、子どものころに体験した魚の湧く光景だった。

フナやナマズの稚魚を私は毎日、田んぼの水口(田んぼへ水を引く入り口)で獲っていた。小学校の夏休みの絵日記は、魚獲りの話ばかりだった。そのころ浄化槽や下水道などまったくなかったが、川の水はなぜかいまよりきれいだった。
夏の晴れた日の午後には、母が神社の前の用水路へ洗濯に行く。そこだけ川底が砂だった。母が洗濯をしているあいだ、私と妹は泳いだり魚を獲ったりした。下流で妹がしょうけ(米を運ぶときに使う竹の籠)を立てて待ち構える。私が両足で水音をジャブジャブさせながら、上流から魚を追っていく。「よし」と私が言うと、妹がしょうけで水底をすくい、持ち上げる。フナ、ナマズ、ハヤ、テナガエビ、カマツカ、ドンコなどが、しょうけの中でピチピチ跳ねまわっていた。夏の煌めく光のなか、水底に魚影を映しながら下流に向かって必死に逃げて行く魚の姿を想い出すと、いまでも心が躍るようだ。

秋の10月10日、用水路の水がいっせいに止まる。この日、私たちは田んぼの畦道を走って学校から帰った。そして、ランドセルを放り投げて魚獲り。
水はすでに引き、あちこちに水溜りができていた。魚はそこに集まっている。その「溜り」の上と下に川底の泥を積み上げて、水が浸入しないようにする。しっかり泥を積んでいないと、上流の水が泥を押し流し、一気に崩壊する。これを「バレル」と言った。バケツで水を汲み出すと、泥水の中から魚の姿が見えてくる。フナ、コイ、ハヤ、カニ、エビ、ときにはウナギもいた。泥水の中には何でもいたのだ。ナマズはたいてい石垣の隙間に潜んでいた。手を突っ込んで、ときには40センチを越す大物をつかみ出した。

村のまわりの5つの池はそれぞれ所有が決まっていた。こちらは子どもの手にはおえず、獲るのはおとなだ。獲った魚は竹串に刺して火であぶる。川魚特有の芳ばしい香りが家中に充満した。それをすり鉢ですってそうめんのつけ汁のだしにしたり、ナスといっしょに煮たりした。

投稿者 noublog : 2020年07月09日 List   

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