2020年7月2日

2020年07月02日

農的社会13~コミュニティ農業Ⅲ.循環させる力

あらゆる地域資源をひとつながりものとして循環させていく仕組み作りが、

コミュニティ農業の基盤になる。

 

以下、転載(「未来を耕す農的社会」2018著:蔦谷栄一)

(さらに…)

投稿者 noublog : 2020年07月02日  

2020年07月02日

〜自然と人の“あいだ”を取り戻す協生農法〜近代農業の限界から登場した農法~

今回のレポートは、近代農業の存在意義について論じています。そもそも人類も数多ある生物のひとつの種であり、自然の生態系の中で存在しています。

遠い昔、人類は自らの生存をかけ、外圧適応のひとつの生産様式として農業を開発しました。

そして、時代は変わり、自然をコントロ―ルしながら、近代農業は存在しています。一斉に同じ種類の野菜や穀物を栽培し、それも水と栄養を過剰ともいえる量を与えながら収穫高を確保する。

果たして、この生産様式は、正しいのか?つまり、地球環境や生態系といった視点でこの生業を俯瞰してみた時にまだまだ改善の可能性があるのではないかと・・・・

焦点は、「共生農法」・・・今回は共生農法についての記事を紹介します。

Published by EcologicalMemes on 2020年4月18日

転載開始【リンク

「地球の生態系に包摂された生命として人はどう生きるのか」

こうした感覚は当たり前のようで、そのつながりを切り離してきた現代社会では失われてしまいやすい。気候変動や生物多様性などの危機が深刻化する中、わたしたちは自然の生態系とどのように関わっていくことができるのだろうか。

本記事では、2019年12月に開催された『Ecological Memes Forum ~あいだの回復~』で行われた体験型セッション「生態系を回復する技術〜シネコカルチャーを巡る対話~」の内容をレポートする。

ナビゲーターは一般社団法人シネコカルチャーの福田桂(ふくだけい)氏。

~中略~

 

■生態系の「あいだ」を回復する協生農法とは

草木が生い茂る山々から着想を得た協生農法は、近代農業における三つの常識「耕す、肥料を使う、農薬を使う」を一切せず、土、植物、昆虫、空気、水などの生態系が潜在的に有する自己組織化の力を総合的に活用する技術である。その方法論は、生物が海から陸に上陸し、動植物が協同して陸地の表土の仕組みを作り上げた地球の生命の歴史に基づいているのだという。

生態系が崩壊した土地に豊かな生態系を回復させる手法として現在も研究が進行中で、近代農業による環境破壊で砂漠化したアフリカのブルキナファソで導入され、食糧危機を回避する手法としても注目を浴びている。

始まりは、何もない土地から。一般社団法人シネコカルチャーHPによると、協生農法は周囲の自然界に開かれた土地があればどこでも実践できるそうだ。

土地を東西方向に畝らせ、数種類の果樹を植える。その果樹の陰に多様な苗を植え、その苗の陰にさらに多種多様な種を蒔く。いずれも多種類を混生させるのには、単一種の生存に依存しない複雑な生態系をつくる意図がある。ここに適切な水分量と一日約4時間の日光があれば、何もなかった更地が緑に覆われる土地に蘇るそうだ。

近代農業では、単一種の生育条件に最適化させた土地で大量栽培する手法が一般的であるが、収穫後に農地は更地になり、そこに生物の姿はない。食糧を収穫する前後の土地は砂漠と化し、その土地を訪れたはずの昆虫や鳥など周囲の生態系への影響がデザインされていないことに、福田氏は違和感を投げかけた。

 

■植物の野生性を目覚めさせる協生農法

そして話は、複雑な生態系の中で目覚める植物の野生性に及ぶ。協生農法で植物を育てると、植物本来の姿に出会い驚く瞬間があるそうだ。植物には、蓄積された養分を土壌から吸い出し代謝させる機能が本来備わっているが、近代農法ではこれを利用して土壌に水と肥料を大量投入するため、スーパーに並んだ野菜は”水ぶくれ”した状態といっても過言ではない。

植物の中には厳しい環境を生存する野生の力が眠っている。それを目覚めさせるのは、近代農法のように野菜を膨張化する栽培環境ではなく、複雑で多様な生命が蠢き合う環境の特徴の一つといえる。協生農法で野菜を育てると、見慣れない姿に驚き、力強い香りや味を感じる瞬間が訪れるだろう。植物本来の野生の姿に出会うことも、協生農法の楽しみのようだ。

 

■50億年目の地球に存在する、生態系ネットワークの歴史

協生農法による植物と土地の変容について話し終えると、福田氏は植物が育つために必要な光、水、土、空気がどこからやってきたのかを、太陽系が誕生した50億年前に遡って語り始めた。1巻の本に1億年分の歴史が記述されるとするならば、太陽系の誕生から今日に至るまでを50巻の本に例えられるそうだ。最初の登場人物は、生まれたての太陽と周りに浮遊する石のかけらだった。

~中略~

50億年の地球の歴史は、複雑な生態系の歴史でもあった。福田氏は近代農法を次のように表現した。海と山の”あいだ”にある自然、つまり地球の生命が陸地に進出し苔や微生物などと共に複雑な生態系を形成した歴史を抜き去っているのが近代農法ではないかと。食糧を収穫した後の農地は生物のいない砂漠になる。生命の上陸以前の何もない土地が、生命の上陸によって森になるまでには数千万年の歳月を要したことを踏まえると、別の方法もあるのではないかと疑問を投げかけた。

『地球の歴史』50巻目の最後のページには、人類の誕生と農業の歴史が記される。50億年かけて地球が育んできた複雑な生態系が、人間の営みによって損なわれるのが現代ならば、人間が生態系を回復させる営みもあっていいはずだと感じたそうだ。協生農法の方法論は、生物が海から陸に上陸し、動植物が協動して陸地の表土の仕組みを作り上げた地球の生命の歴史に基づいている。これが、福田氏が協生農法を広める理由だ。

 

■植物を食べることは、星屑を自分に取り込むこと

~中略~

「植物が育つのに何が必要か」と問いかけると土、水、光、空気と挙げてくれる子ども達に対し、これらは宇宙からやってきたという説明をするそうだ。いずれも50億年の地球の営みを通して形成された姿であり、一朝一夕では到底作り得ない特別感を感じてもらうことからシネコプランターの説明は始まる。

土には数種類あり、赤土、黒土、腐葉土と広げて見せた。地球の歴史を遡ると、元々赤土だけが存在していたところに腐葉土のような有機物が混入して黒土が生まれたそうだ。さらに赤土の起源を遡ると、石類が登場する。ここで、鉢植えの中に地球の地層を再現するかのように石類、赤土、黒土、腐葉土と順に重ねて置き、さらに苔、シダ植物、地衣類、菌類を乗せて最後に種を散らし、小さな地球を完成させた。

我々が植物を食べるのは、地球という惑星の一部を身体の養分にしていることだと福田氏は繰り返した。植物は地球の養分を吸って育ち、人はその植物を食べて育つ。そして死んだのち人は土に還るが、それは星に還ることであり、自分たち自身も地球という惑星の一部、星屑を借りて生きている存在なのだと話した。植物を食べる自分が、50億年の地球で脈々と続く生命の循環ネットワークの中にいることを想像させるワークショップであった。

 

■人と生態系のあいだ“渚”で交わる生命の循環

人はどのように生態系と関わればよいか。この問いに対し、福田氏は、人と植物のあいだの空間を“渚(なぎさ)”と呼んで説明した。渚とは、協生農園の境界部分に位置し、人が立ち入って植物に介入してもいい空間だ。例えば、繁りすぎた植物や乾燥して白くなった葉など、自分たちにとって不要なものを刈っていい。ただし、刈った植物は渚エリアの土壌に還してあげることがルールである。生態系の循環を途切れさせないこと。実った野菜や果実を分けて頂くという姿勢。渚における生態系との関わりには、この二つが肝要である。

~中略~

 

■編集後記:自然に包摂された生命として生きる

数十億年の生態系の歴史を、近代農業が一瞬のうちに破壊することの意味をどう捉えるべきか。福田氏の問いかけの根本はここにあるように感じた。

人の営みと自然の関係性を捉え直す機会は過去にもあった。例えば、高度経済成長期に発生した四大公害病。甚大な健康被害が生じたと同時に、生態系を回復させるには膨大な時間を要することが判明し、これを発端に数々の工業規制が生まれた。また漁業では、持続的な食糧確保を目的に、漁獲量が魚の再生量を超過しないよう総量規制が一部運用される。しかしいずれも、人が自然から恩恵を受け続けるための対症療法であり、抜本的な関係性の変化にはつながってこなかった。

もしかしたらスタート地点が違うのかもしれない。

福田氏は、生きていく中で失いたくない価値観の一つを“社会から切り離された価値観”と表現していた。そのために、毎日火や水に触れるそうだ。千年前にも千年後にも通用する自然原理に触れることで、日常生活だけでは失われる人間らしさを取り戻そうと心がけているらしい。~中略~

自然の生態系に包摂されているという視点で、自分の暮らしやあり方に違和感や心地よさを見つけたとき、それは地球と自分のあいだを漂う流れに身を任せていく旅の始まりになるかもしれない。

以上転載終了

 

■まとめ

現在、共生農法を実践している農業家は、いくつか存在しています。彼らが、一様に主張するのは、現在の農業、特に近代農業に対する疑問です。

農業は、自然相手の生業として存在しています。ところが、今回のレポートに接すると、近代農業の実態は、作物の収穫後は反対に自然を破壊した環境を作り出し、(土地を砂漠化させ・・・)生産する作物は、過剰な水と肥料で水膨れさせた成果品(=半人工物)というように、人間本位によって登場した生産様式と言えなくもない。ことに気づきます。

これまで、農業は公害とは無縁な存在でした。しかし、実態は大きな矛盾をはらんでいること。大量生産、大量消費の近代農業の限界。この現実の問題点がクローズアップされているのです。

水、空気、火といった地球に存在するあらゆる自然原理に触れながら、本能(五感)をフル回転させ、自然と自分たちが一体になる生き方。

生態系、自然循環の中に人類が存在することを受け入れれば、共生農法は、人と自然を繋ぐ延長線上に存在し、本来、まさに人が生態系の一部に存在する「新しい農のかたち」としての次代の農法となっていくとは言えないでしょうか? では次回もお楽しみに!

投稿者 noublog : 2020年07月02日