農と全人教育12~国策としての農業壊滅 |
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2020年03月26日
農と全人教育13~農的社会への地殻変動が加速する
リーマンショックが「上から来た不況」だとすれば、今回のコロナ発大不況は、「足下から直撃する不況」。
日常生活のあり方そのものを直撃していく今回の事態は、「経済成長」がいかに幻想まみれの言葉であるかを私たち自身が深く体に刻み込む機会になっていくのではないか。
新たな社会・経済システムへの転換スピードが、急激にシフトチェンジする予感。
以下、転載(「農業を株式会社化する」という無理 著:内田 樹)
■定常経済へのソフトランディング
でも、どうじたばたしても、成長が止まって定常経済になることはもう不可避なのです。経済成長についてどういう戦略があるか、というような話をしたければしてもいいけれど、それと同じだけの時間を「経済成長しなくなったときにどういう戦略があるか」についてかけても罰は当たらないのではないかと僕は思います。そういう「リスク」を勘定に入れた上で、これからどういう経済システムを構築すべきかについて衆知を集めて議論することに対して、どうしてそれほどにヒステリックな罵倒が加えられるのか。すでに他の国々では低成長時代・定常経済時代に対応して、どういう社会システムを構築すべきかについて真剣な議論が始まっています。でも、日本では政治家も官僚も学者もメディアも、誰もそれについて語らない。僕はアメリカの外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』の日本語版を読んでいますけれど、アメリカでもエコノミストたちは「成長しないということを前提に国の制度設計をしないとまずい」という議論を始めています。一つには人口減が欧米でも始まるということ。それからAIが人間の能力を超えるシンギュラリティが産業構造にどんな影響を及ぼすか、見通しが立たないということ。
AIの登場によって大量の失業が発生することはほぼ間違いありません。でも、それがどの産業セクターで、どの程度の規模で起きるのかは予測が立たない。アメリカでも製造業の雇用の30%が消失するという予測があります。そのような事態が短期的に起きそうです。これまでなら「仕事を失ったのは、技術革新で淘汰されるような業界に就業した本人の自己責任だ」で終わらせてきたアメリカの新自由主義者たちも、さすがにこれだけの規模の雇用喪失が短期間に生じるとなると「自己責任」で放置してもおけない。数百万単位の失業者が出てきた場合には、彼らを再教育して、新しい職場に再雇用しなければならないわけですが、それにはかなりの期間とコストがかかります。それを自己責任で担えということはできません。消費活動が一気に冷え込んだら連鎖倒産が起こる。株価も地価も暴落する。福祉予算が破綻する。治安が悪化する。アメリカのシステムがもちません。なんとかして大量失業の衝撃を緩和しなければならない。だから、アメリカでもベーシックインカムの検討が始まっています。アメリカのようなリバタリアン気質の国で、ベーシックインカムのような包括的な社会福祉の政策について、ウォール街のエコノミストたちが本気で論じ始めているというのは、かなりの危機意識が高まっているということです。
日本だけが何も考えていない。国が人口減についても、シンギュラリティがもたらす大量失業についても、何も考えていない、政官財メディア、誰も先のことは何も考えていないということがしだいに分かってきたので、若い人は自力で生き延びるために地方移住を始めたわけです。
僕の道場の門人で、兵庫県の朝来市で農業をしている人がいますが、彼にこのあいだ会ったときに「株式会社にする」と言っていました。「みんなから10万円ずつ集めて、資本金にして、配当は収穫物で現物支給というのでどうでしょうか」という事業計画でした。出資者の求めるものが株の配当ではなくて、農業を支援すること、その成果を作物として受け取るというビジネスモデルは水野和夫さんの言われる「定常経済における株式会社モデル」そのままでした。別に彼は水野さんの本を読んで学習したわけではなく、自分で考えたのです。自分の事業をたくさんの人に支援してもらって、それで質の良い農作物を作って、その収穫をお茶であったり、お米であったり、ショウガであったり、ゴマであったりというかたちで配当する。出資者たちは日本の農業を支援して、美味しいものを食べることでその恩沢に浴するということでいいのではないか、そういう発想です。今はインターネットがあり、宅配システムが完備していますから、通販で農作物のネットワークを手作りして、自分で作った農作物を売って生計を立てることはビジネスモデルとして決してそれほど難しいことではない。たぶんそれがこれから後の地方移住者の営む農業の標準的なモデルになっていくんじゃないかと思います。
■農的社会への地殻変動
>若い人の農業の捉え方は、昔とだいぶ変わってきてると思います。うちの寺子屋ゼミに聴講に来ている大学生で、いま学校を休学して朝来で農業をやっている者がいます。大学3年のときに休学して、静岡で半年農家の手伝いに入って、それから朝来のうちの門人のところでいっしょに仕事をしている。卒業後は自分の畑を持って、専業農家でやってゆくつもりだということです。どうして、大学3年生でそんなことを思ったのか訊ねてみたら、「就活の季節が始まって、どんな仕事があるのかとか考えていたら、これからは農業だろうと思ったからです」という答えでした。その言い方があまりに「ふつう」なのに僕はびっくりしました。特に気負うでもなく、ただ就活の一環として「メーカーに行こうか、商社に行こうか」みたいな感覚で、「都市部で会社勤めするか、地方で農業やるか」を考えて、農業を選んだ。そういう職業選択の決定に際して、ごく自然に農業という選択肢が入っている。どうも自分は農業に向いてそうだからという理由で、とりあえず農家に行った。前だったら、大学生が就活のときに、選択肢の一つとして農業を選ぶということはちょっと考えられませんでした。今はそういうことがごくふつうに起きている。特に気負いもなく、誰かの本を読んで影響されたとか、「日本の農業を守らねば」というような過剰な使命感があったわけでもなく、就職先を探して、合理的な帰結として農業を選んだという点に僕は「時代の潮目が変わった」ということを実感しました。
それは、繰り返し言うように、都市部での賃労働の先行きがそれだけ不安定になってきているということでもあります。昔だったら新卒で採用されて勤め人になってしまえば終身雇用で、問題がなければ定年退職まで勤め続けられると期待することができた。今はもう、ほとんどそんな安定した雇用は期待できません。新卒時に入社した会社に定年退職まで勤め上げるなんてことはもう全体の数%もないでしょう。90%以上の人が転職したり、転業したりする。場合によっては会社そのものがなくなってしまう。
株式会社の今後を考えると、農業というのは相対的にはかなり安定した仕事だということがわかります。収益はあまり期待できないけれど、食べることはできる。自分自身の技術は蓄積して年々高まり、農業労働者として熟練し成熟することは実感できる。そういう手応えがあって、しかも周りに感謝されるという仕事って、なかなかありません。
先ほどの学生には「農業をやると言ったら、ご両親はなんて言ったの」と聞いたら、「『食えるのか』って聞かれた」そうです。だから「農業だから『食える』ことだけは保証付きだ」と答えたんだそうです。
今の東京のメディアは潮目の変化の感知能力がずいぶん落ちていますから、ここで取り上げているような帰農の趨勢にはまだほとんど気がついていないと思います。先ほども言ったように、「帰農運動」というようなムーブメントがあるわけではないからです。理論的指導者もいないし、綱領もない。みんなが自発的に散発的に「自分がやりたいこと」をやっていたら、大きな流れができてきていた。集団的な叡智というのは、同じ一つのことが、同時多発的に、それぞれ無関係なところで発生するというかたちをとります。そういうものなんです。それが一番確かな動きです。一時のブームとか流行とかじゃない。そういう地殻変動の流れはもう始まっていて、感受性の鋭い部位から順番に動き始めている。
投稿者 noublog : 2020年03月26日 TweetList
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