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2015年02月24日

日本農業、破壊の歴史と再生への道筋4~巨大組織、JA農協の特殊な生い立ち

前回記事:日本農業、破壊の歴史と再生への道筋3~農地改革の欺瞞

>そして、これら保守化した農村を組織し、自民党政権の下で最大の圧力団体となったのが、JA農協である。

JAは、生協など他の協同組合と比べて特殊な生い立ちと歴史を持っているが、その事実は意外と知られていない。

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■生協と違う、農協の特殊な生い立ち

「日本の農業を破壊したのは誰か」(著:山下一仁)より引用(P92)

農協は、法律制度上は自由に加入・脱退できる農業者の自発的組織である。しかし、政府は、戦時中の国策協力機関として全農家を加入させ、農産物販売、貯金の受け入れなど幅広い事業を行った”農業会”という統制団体を、1948年に衣替えさせ、JA農協とした。食糧難の時代、政府に配給米が集まるよう、コメ等の供出機関として利用したのだ。JAは、行政の下請け機関となるとともに、行政と同じく「全国‐都道府県‐市町村」の3段階で構成される上位下達の組織となった。

 

戦前、農業には「農会」と「産業組合」という二つの組織があった。

 

「農会」は、農業技術の普及、農政の地方レベルでの実施を担うとともに、地主階級の利益を代弁するための政治活動を行っていた。農会の政治活動の最もたるものは、米価引き上げのための関税導入だった。輸入を抑制して供給を減少させれば、米価は上がり、地主の収入は増えるからだ。

 

農会の流れは、現在JAの営農指導・政治活動(全中の系統)につながっている。地主階級が米価引き上げや保護貿易を推進したのと同様、農会を引き継いだJAは、高度成長期に激しい米価闘争を主導したし、ガット・ウルグアイ・ラウンド交渉、TPP等の貿易自由化交渉においては、王産物の貿易自由化反対の急先鋒となっている。

 

「産業組合」は、組合員のために、肥料、生活資材などを購入する購買事業、農産物を販売する販売事業、農家に対する融資など、現在JAが行っている経済事業と信用事業を行うものだった。

 

当初産業組合は地主・上層農主体の資金融通団体に過ぎず、1930年の段階でも、4割の農家は未加入であるなど活動は低調だった。もっとも、ここまでは自主的に組織された組合だった。しかし、農産物価格の暴落によって、東北では娘を身売りする農家も出た昭和恐慌を乗り切るために、1932年農林省は有名な「農山漁村経済更生運動」を展開する。産業組合は拡充され、全町村の全農家が加入し、かつ経済・信用事業すべてを兼務する組織となった。これが農業・農村に関するすべての事業を営む今日の「JA総合農協」の起源である。

 

「農会」と「産業組合」、戦前からあった二つの組織が、戦時体制の下で「農業会」という一つの組織に統合されていく。そこには”協同組合”という言葉からは想像しえない国家の意図が、強く介在していたのである。

 

 

投稿者 noublog : 2015年02月24日 List   

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