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2013年06月21日

農を身近に★あぐり通信vol.5:贈与でどうよ?物々交換は脱市場→贈与経済への第一歩

こんにちは 😀
前シリーズ「タネから次代の農業を考える」では、

“安い”“いつでも手に入る”“調理しやすい”などの市場経済によって増長されてきた価値観ではない判断軸をもつ人々が増えていること また、形ばかりの健康志向や安全志向ではなく、“種”という本質的なものへ人々の関心が集まりつつあること。これは、私たちの求める豊かさの質がより本源的なものへと転換してきていることを現しているといえるでしょう。

と提起しました。これからの農業、地域を予測していく上で、市場経済からの脱却は大きなテーマとなるのではないかと思います。
では、脱却した先はどうなるのか?
今回は、それを考えるヒントとして、内田樹さんが提唱している「贈与経済論」をご紹介します。
内田さんは、「現在のような交換経済から贈与経済へというおおきな流れはもう変えようが無いと思っている」と推測しています。
そして後半では、丹羽順子さんが発起人となり、拡がりを見せつつある“xChange”という、物々交換会の紹介をします。
古着などを交換するマルシェのようなイベントです。
そして、当ブログでこれまでも扱ってきた“タネの交換会”も再考します。
どちらも交換の場ではありますが、内田さんのいう、贈与経済へつながる可能性を感じています。
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それでは早速、贈与経済論の紹介に入ります。
「贈与経済」とはどういうことか、『呪いの時代』(著:内田樹)から引用しながら紹介します。
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贈与経済というのは、要するに自分のところに来たものは退蔵しないで、次に「パス」するということです。それだけ。
「自分のところに来たもの」というのは貨幣でもいいし、商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。とにかく自分のところで止めないで、次に回す。(中略)それで「金を買う」以外に使い道のないようなお金は「なくてもいい」お金だと僕は思います。それは周りのまずしい人たちに「パス」してあげて、彼らの身体的要求をみたすことに使えばいい。ご飯や服や学校や病院のような、直接人間の日常的欲求をみたすものに使えばいい。タックスへイブンの銀行口座の磁気的な数字になっているよりは、具体的に手で触れられる「もの」に姿を変える方がいい。

「金を買う」の金とは、貴金属品やブランド品 、株券 、不動産 なんかも含まれます。要するに、なくていいものです。お金をたくさん持っている人たちは、自分の地位を誇示するためとか、いわゆる自己満足のために、こうしたなくてもいいものを買っていますよね そういう体験は、日本人であれば、一般人にもあるはずです そういうものは、買わなくていいから、その分のお金を他の誰かにパスしよう というのが「贈与」なのです。そして贈与された側がまた他の誰かに贈与するという連鎖「贈与経済」ということなのです
しかし、この「パス」することは実はむずかしいことだといいます

「パスをする」と簡単に言いましたけど、これはよく考えると、けっこうむずかしいことなんです。(中略)贈ったことで、その相手に屈辱を与えたり、主従関係を強いたり、負い目を持たせたり、あるいは恨みを買ったりすることが無いように、気持ちよく、生産的にお金を渡すことができ、かつ、そのお金がその人においてもまた退蔵されすに、その人が救われて、さらにその人が次の人にパスしてゆくときの原資となる。そういう「パスのつながる」プロセスを立ち上げるような仕方で贈り物をするのは、実はきわめて困難な事業なのです。

確かに、突然、わけもなく誰かからお金をもらったら戸惑いますよね 大金であればあるほど。
そして、たとえ受け取ったとしても、余ったお金を誰かのために使おう、パスしようとは、普段私たちはあまり考えないように思います。これでは、パスが連鎖していかない=贈与経済が成立しない、というわけです。
では、どうしたら贈与経済がうまくまわるのでしょうか?
内田さんは、その条件は「市民的に成熟していること」だけだといいます。

贈与がうまくいかないのは、(中略)贈れるだけの資産を持っている人たちが、それにもかかわらず贈与を行うだけの市民的成熟に達していないからです。適切なる「贈る相手」をきちんとリストアップできていないからです。パスを送ったときに、「ありがとう」とにっこり笑って言ってくれて、気まずさも、こだわりも残らないような人間的なネットワークをあらかじめ自分の周囲に構築できていないからです。貧乏なとき、困っているとき、落ち込んでいるときに、相互支援のネットワークの中で、助けたり、助けられたりということを繰り返し経験して綺羅人間だけがそのようなネットワークを持つことができる。その日まで、自己利益だけを追求して、孤立して生きてきた『クリスマス・キャロル』のスクルージ爺さんみたいな強欲な人が、ある日株で儲けたから、宝くじで当たったからと言って、このお金を貧しい人たちにあげようと思い立っても、どうしていいかわからない。贈りますと言っても、たぶんみんな気味悪がって、受け取ってくれない。
(中略)贈与経済が成り立つための要件は、ですからある意味きわめてシンプルです。市民的に成熟していること。それだけです。自分より立場の弱い人たちを含む相互扶助的なネットワークをすでに作り上げており、その中で自分が「もっぱら持ち出し」役であることを楽しむようなマインドをもつ人であること。そういう人のところに選択的にリソースが集中するシステムが贈与経済システムです。

「市民的に成熟した人」というのは、自分がもっぱら持ち出し役になってもとやかく言わず、むしろみんなが喜ぶことを楽しむような心をもった人ということのようです そしてそう人にこそ、お金やものが集まって贈与のハブになれば、贈与が連鎖しやすくなると。
「経済」について、内田さんはこういっています。

何かを「ぐるぐる回すこと」それ自体が目的であって、ぐるぐる回る「何か」に有用性があるかどうかには副次的な意義しかない、そういう活動が存在する。そして、そういう活動こそが経済の本来の姿であり、商品交換はそのひとつの派生形態にすぎない。
(中略)僕たちはうっかりと「ビジネスで成功するためには、市民的成熟が必要である」というふに考えている。でも、これ、ほんとうは話が逆なんじゃないかと僕はおもうんです。「市民的成熟を促すために、『ビジネスで成功することはたいせつだ』というフィクションをみんなで信じているふりをしている」というのがほんとうなんじゃないか、と。人間的活動の目的は、人間の成熟を促し、人間の共同的な関係をしっかりと基礎づけることであって、そのための技術的な「迂回」として、「じゃあさ、ひとつ『ものをぐるぐる回す』というゲームをみんなでやらないか」という話になった、と。僕はそれがことの本来の順序ではないかと思うのであります。

以上、贈与経済論のなかで内田さんの言っていることをまとめると、
本当に大切なのは、経済を回すことでも、ものを手に入れることでもない。私たちが、強いものも弱いものも、みんなが相互に扶助しながら健全に暮らしていくこと。そのためには、「社会的インフラ」と「人間的成熟」が必要である。そして、そのふたつを実現するシステムとして、「贈与経済」が考えられる。そして、逆に贈与経済が成立するためには、「人間的成熟」が必要不可欠なものになる。ということだと思います
しかし、どのようにして、贈与経済を実現するのか?しいては、「人間的成熟」と「社会的インフラ」を実現するのか?については、触れられていません
いざ実現するには?と考えて見ると、贈与経済と人間的成熟、どちらかが先に達成されるというものでもなさそうですので、ちょっと困ったことになります 🙄
そこで、その実現にむけた足がかりになりそうな事例として、「xChange」と「たねの交換会」を紹介します
○XChange→リンク
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xChangeは、丹羽順子さんが主催する、服やファッションアイテムを物々交換する交換会です。2011年には年間100回ほど各地で開催されたようです
基本的には物々交換をする場ですが、出展者だけが交換に参加できるわけではなく、そこを訪れた人も参加できます。服を持っていなくでも参加できるんです。
基本的には“ノールール”でお互いが納得できる交換が成立すれば、交換の形は問わないという会のようです
ホームページには4つの特徴が紹介されています。

①(アイテムに)エピソードタグをつける
②あるもので工夫して、おしゃれに(出店・開催する)
③誰も損をしない、誰も儲けない(ビジネスにしない)
④誰でも開催できる(趣旨へ賛同してくれる人ならだれでもxChangeを名乗って開催できる)

これを見ただけでもただの交換会ではなさそうです
このなかで、特に特徴的といえるのが①の「エピソードタグ」です。エピソードタグとは、その服にまつわる「ちょっとした思い出だったり、次に使う人に向けたメッセージだったり、目には見えない大事な気持ちのようなことを書いてもらおう」というカード。これを値札の代わりに交換アイテムにつけるのです。
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このタグの効果について、丹羽さんは『幸せに向かうデザイン(著:永井一史、山崎亮、中崎隆司)』の中でこう語っています。

そうしたら本当にみんなこのタグを頼って、エピソードを読みながら服を探すんですよ。(中略)
全てにプライスタグが付いているような時代なので、その価値基準を一回なくしたところで、やっと自分なりの評価基準を発揮することができる。お金がなくても豊かだよねとか、お金をかけないからこそ、お金以外のところにちゃんと頭が働き出すよねとか。そんなふうに意識が変わるきっかけになるんです。
(中略)お金に対する意識が全くなくなる分、タグのエピソードで決めるとか、もちろんそれが自分に似合うか、本当に大事にこれを長く使うか、とかも真剣に考え始めるわけです。(中略)
安いから買っちゃえ、得だから買っちゃえではなくなる。

エピソードタグによって、その服にまつわる贈り手側の想いが、受け手側に伝わるようですね 😀 その想いをどう捉えるかは、受け手にゆだねられますが、確かに気軽には受け取れないように感じます。贈り手の想いも一緒に受け取る覚悟がないと受け取れないというか。例えば、それを捨てるときのことを想像してしまったりすると、なおさら考えさせられます 市場では匿名的だった部分が、はっきりと誰かを示すようになり、それによって受け取るとか捨てるとかという行為が、全く別の感覚で行われるようになっています。
そしてもうひとつ、③「誰も損をしない、誰も儲けない」というのも、特筆すべきものと思います。
xChangeでは、必ずしも物と物を交換しなくても良いのです。当人がフェアであると思えば、交換するものは労働でも、xChangeを開催することでも、もらった物をつかって何かを実現することでもいいというのです。もちろん、ただ受け渡すだけでもいい。そこには、損得ではない、想いのやりとりよのうなことがおこっているのだと思います。いうならば、物々交換と同時に、心々交換が起こっている。この人だったらエピソードタグに込めた想いをつないでくれるだろうという期待と、この人の想いをつなぎたいという想いがやり取りされるわけです。
市場経済では、自分がgiveしたもの(お金)に対するtake(商品)が直ちに返ってきます。物々交換でも基本的には同じですが、交換するものが物でなく、労働になったり、将来xChangeを開くことだったり、もらった物を使って何かをすることになっていったとき、自分がgiveしたものに対するtakeがいつどんな形で返ってくるかわからなくなる。それでも交換(もはや贈与といってもいい)が成り立つというところが興味深いところです。
内田さんのいう「贈与経済」「市民的成熟」は、give and takeの関係よりも一歩進んだ、“自分がもっぱらgive側に回っても、喜んで贈与する心の連鎖”を言っています。「成熟している人」とは、そういうgiveに対するtakeがすぐさま期待できなくても、いつか返ってくるということを、意識せずとも理解しているような人なのではないでしょうか
xChangeは、基本的に物々交換ですのでgive and takeです。が、そのやりとりの間に“想い”が介在して、損得という基準がなくなっていくうちに(こういう心々交換をしているうちに)“いつかは何かが戻ってくるだろうから”と自然に(なんとなく)感じられるようになっていくような気がします
そしてゆくゆくは、そんな損得を全く意識せずとも贈与できる心が育まれていくように感じます
そしてこれは、以前の記事にしたタネの交換会でも同じことが言えるのではないかと思います。タネの交換会には、タネを持っていなくても参加できる。そのタネを育てて、種取りをして、そのタネをまいて・・・というようにタネをつないでくれるなら、タネの贈与も行われるからです。
そういう意味では、xChangeやタネの交換会は、市場経済から一歩贈与経済に近づいているように感じます。
物々交換(≒心々交換)が「市民的に成熟した」人の心をつくっていく、第一歩になるのではないでしょうか

投稿者 staff : 2013年06月21日 List   

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