2020年9月29日

2020年09月29日

土地に宿る知恵や精神性を時代にふさわしい形でよみがらせる。小水力発電から始まった、岐阜県石徹白集落に暮らす270人の「持続可能な農村」へ向けた挑戦

さて、本日は、現代における、農を中心とした持続可能な村をつくり続ける人たちのお話です。

彼らは、単に作物をつくる事だけにとどまらず、省電力発電から始まり、今や衣食住の分野でも、自分たちで、自立できる社会を構築しています。

彼らのあくなき挑戦を今日は、紹介します。リンク1    リンク2

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食、エネルギー、コミュニティ、ビジネス……さまざまな人間活動において、このところ“持続可能”であることを意識する人や団体・企業が以前よりも増えてきています。“持続可能”はgreenz.jpでもよく登場するキーワードであり、読者のみなさんも一度は使ったことがあるのではないでしょうか。

でも、どういった状態になれば“持続可能”であるのか、よくわからないまま使っているという人や、今まさにその答えを模索中だ、という人も多いはず。今、日本のあちこちで試みられているさまざまな取り組みの多くは、この“持続可能”とはどういうことなのかを検証する実験とも言えるのかもしれません。

今回の記事も、その試みのひとつをご紹介するものです。舞台は、古くより信仰の対象とされてきた白山の麓にある、岐阜県郡上市の「石徹白(いとしろ)」という、人口270人の小さな集落。

標高700mにあるこの集落は、冬は豪雪に覆われ、俗世間から離れた「別天地」とも呼ばれています。そして今、易々とは暮らせないこの地で、代々暮らしをつないできた人々と協力し、エネルギーに端を発した「持続可能な農村」のあり方を模索する姿があります。

 

◆今、石徹白で起きていること 

石徹白は、日本三名山のひとつである白山への信仰が盛んだった平安時代から鎌倉時代にかけて、「上り千人、下り千人、宿に千人」と言われるほど修験者が多く出入りし、栄えたところです。明治時代まで神に仕える人が住む村として藩に属さず、年貢免除・名字帯刀が許された土地で、その影響もあって独自の文化が形成されました。

そんな石徹白についてお話をしてくれたのは、9年前に東京からはじめてこの地を訪れ、5年前に移り住んだ、現在「NPO法人地域再生機構」の副理事長を務めている平野彰秀さんです。

 

平野さんが所属する「地域再生機構」は、小水力発電や木質バイオマスの導入支援事業を中心に、農協や地域づくり協議会など、地元団体と連携しながら活動を行っています。

石徹白と聞いて「小水力発電の」と、ピンときた方も多いかもしれません。石徹白は、その豊かな水の流れを生かして早くから小水力発電事業を始めた地域として知られ、現在は計4機の水力発電機を設置。4機分合わせて、集落全体の電力使用量を補って余りある量(自給率230%)の電気を発電することが可能となっています。

2016年6月に総工費2億3,000万円をかけて新設された「石徹白番場清流発電所」は、約130世帯分の電力を発電。発電所建設のために、高齢者単身世帯も含めた集落のほぼ全戸が合計800万円を出資して、2014年、新たに集落独自の農協を設立。建設費は、農協の理事たちが保証人となって受けた銀行融資の6,000万円に補助金を加えて賄われました。

融資を受けた分は北陸電力への売電益で返済を行っていき、余った分を村の振興に活用する計画だといいます。

 

この小水力発電が呼び水となり、石徹白への訪問人口は増加。それと連動して、石徹白のあちこちで大小さまざまな取り組みが行なわれてきました。その一部を簡単にご紹介します。

 水力でつくられた電気で特産品開発

2011年、休眠していた農産物加工所に、水車でつくられた電気を送り、加工品開発に着手。石徹白の名産であるとうもろこし「あまえんぼう」の乾燥品、蜜柑や苺など、素材を活かしたドライフルーツが並びます。外部からの加工委託も受けるようになり、8月および冬季のあいだの雇用が生まれています。

訪問者にごはんを振る舞う「くくりひめカフェ

「くくりひめカフェ」は2009年より、地元の女性有志で運営しているコミュニティカフェ。地元でとれる新鮮で安全な食材をふんだんに使い、料理やスイーツを提供しています。地元の女性たちの「カフェをしたい」という思いがきっかけとなって実現。小水力発電の見学のお客さんたちにも好評です。

 集落の豊かな自然を生かした「いとしろアウトドアライフヴィレッジ

放置林を生かした自然共生型のアウトドアパーク「冒険の森」や、直火が使えるキャンプ場「ロックフィールド」など、自然と人をつなぐことを商いにする外部からの事業者も参入。森・川・山・里など集落全体でできる体験をひとくくりにして、「いとしろアウトドアライフヴィレッジ」という編集を施して発信しています。それらの体験が2日間に凝縮された「いとしろアウトドアフェスティバル」も、新たに始まりました。

そしてさらに、小水力発電とは直接のつながりはありませんが、人が増えたことによって生まれている取り組みも少しだけご紹介します。

土地のあらゆる豊かさを発信する石徹白洋品店

「石徹白洋品店」は、地域に残る伝統的な野良着を復刻し、直線断ちのみで構成されるズボンや上着を制作。先人の知恵を学びながら、この土地のあらゆる豊かさを発信しています。

より自然な方法での農産物栽培に取り組む若手農家

自然栽培で野菜を育てる「サユールイトシロ」や、化学農薬・化学肥料を使用せずにフルーツほおずきやお米を育てる「えがおの畑」など、より自然に配慮した方法で農産物栽培に取り組む若手農家が移り住み、活躍しています。

加えて近々、別の移住者によるゲストハウスもオープンする予定だそう。

このように、実にさまざまな取り組みが起こりながら、2008年から2016年の8年間で、13世帯32人の移住が実現しました。数だけ見れば少ないと思うかもしれませんが、人口270人の村で、住人の1割以上が移住世帯である状況は、奇跡と言っても過言ではありません。

現在の小学校の児童数は全体で4名ですが、小学生未満の子どもの数は11人に。見事なV字回復を成し遂げつつあります。

 

◆全てが手探りだった小水力発電 

平野さんはもともと岐阜県岐阜市の出身。石徹白に来る以前は、東京で外資系のコンサルティング会社に勤めていましたが、いつかは地元の地域づくりに関わりたいと考え、2007年当時、岐阜のまちづくり団体のメンバーとともに、郡上で田んぼや林業の手伝いを行っていたといいます。

>自然も豊かで人もいいし、食べ物もつくれるし、通っていてとてもいいところだと思っていました。しかし一方で、人が減り、田んぼや森が荒れ始めているという状況を目の当たりにしました。

また当時、『成長の限界、人類の選択』というアメリカの学者が書いた本などを読んでいて、グローバルで持続可能な社会をどうつくっていくのかを考えないといけない局面にきているということも認識していました。 

そうした認識を持ちながら石徹白に通ううちに、平野さんたちは小水力発電が農山村の復興を成す存在になりうるのではないかと考えるようになります。

もともと農山村はエネルギーや食べ物を自給していて、明治大正期には全国で水力発電が行われていたわけです。

>それが、高度成長期以降は電力会社から電気を買うようになって、薪で暖をとっていたのも石油に変わり、子どもたちは街へ出るようになって、お金も、人も、どんどん外へ出て行くようになってしまいました。

でも、もともと自給できるポテンシャルがあるので、ある程度地域内・流域内で食べ物やエネルギーを賄うことができれば、外に出ているお金を取り戻すことができるんじゃないかと思ったんです。 

さらに、グローバルの視点で持続可能な社会をどう実現するかと考えた時に、「小さく始める」ことが重要だという仮説を立てたといいます。

>国と国のエネルギー戦略という観点があって、その大きなシステムに働きかけることももちろん大切です。でも僕たちは、身近なところから、地域の人たちが自分たちで持続可能な地域をつくり、それが集まりあうことで、全体としてサステナブルな地球環境が保たれていくという物事の順番に可能性を感じています。  

そして2007年の夏、平野さんたちは「地域再生機構」の理事長である駒宮さんと出会ったことで、のちに水力発電事業の事業主体となる「やすらぎの里いとしろ」と縁がつながり、その後の半年間で3機の小水力発電機を実験的に設置。発電のポテンシャルと消費電力量の調査を開始するも「失敗だらけだった」と、当時を振り返ります。

>素人ばかりで始めたので仕方がないのですが、農業用水に設置したので、落ち葉や刈られた草が流れてきて5分で詰まってしまったり、電気を制御する方法を知らなかったので、大水がくると電圧が上がって電球が割れてしまったりしていました(笑)

そんなお粗末な状態でしたが、半年間で、農山村で自然エネルギーをつくれる可能性を感じられたのはとてもよかったです。でも、当時の地域からの目は冷ややかで、一部の人たちが「農業用水で遊んでいる」って言われていましたね。

水力発電やエネルギーなんて、頭でっかちな都会側の理屈でしかなくて、田舎の人たちからすると興味の対象は、「カフェをしたい」など他のところにあるんです。そこを一緒に考えていくことが必要だと感じていました。 

その後、水力発電の専門家もチームに加わり、2009年に設置した水車によって、「やすらぎの里いとしろ」の事務所一軒分の電気を賄うことに成功。2011年には休眠中の農産物加工所を再開させると同時に水車を設置し、加工所の電気をつくり、加工品開発も開始することができました。

そして、見学者が増えて「くくりひめカフェ」に水車見学のお客さんが増えたあたりから、「水力発電ができてよかった」という声が上がるようになり、移住者が来るようになって子どもが増えてくると、さらに地域の雰囲気が変わっていったそうです。

 

◆9年間の活動から見えてきたこと 

はじめて石徹白を訪れてから9年。平野さんは外から地域を支援する風の人から、土地に根をおろす土の人になり、地元の人たちと触れ合いながら活動する中で、何事をするにも、“この地に受け継がれてきている精神性”をベースに持つことが大事だと感じるようになったと言います。

>水力発電は、それ自体が目的ではありません。大事なのは、自分たちの手で暮らしや地域をつくるとか、地域で一つになって未来のために行動することです。

でも、それって実は新しい話でもなんでもなくて、これまでずっと続けられてきたことですよね。顔の見える関係の中で、限られた自然資源を過度に搾取することなく自然と共に暮らしていくこと、次の世代に思いを馳せること、食べ物やエネルギーがどこからやってくるのか知ることや、自分の命がどこへつながっているのかを考えること。

自然があるから自分たちの暮らしがある、そのことを日々感じているからこそ、「天気がいいですね」と声をかけると「ありがたいね」と返ってくる。感謝するという気持ちが当たり前にある。そういう精神性がベースにあるということが、これから環境や持続可能な社会を考える時に大切なのではないかと思っています。 

白山信仰が盛んな時代、登山道の整備は地元の若い衆が3、4日かけて泊りがけで行っていたといいます。時代は移ろい、一時はその共同作業がなくなって外部に委託していたこともありました。しかし20年ほど前から「石徹白一白山道清掃ボランティア」というイベントを通じて、住人と白山登山のファンの人たちが一緒に管理するという形に切り替えたそうです。

このボランティア登山も、水力発電も、石徹白で起きているおもしろい出来事はすべて、住民が協力してひとつのことを行っていた、かつての「結いの作業」と同じ。それを、“今の時代にふさわしい形”でよみがえらせているだけだと平野さんは言います。

>地域づくりなんて今に始まったことではありません。それこそ縄文の時代からずっと、自分たちの暮らしは自分たちでつくってきたんです。

大学の先生に教わって、東京で働いて、これまでいろいろな人たちからさまざまなことを学んできました。でもそれ以上に、ここに住んでいる人たちがふと口にする言葉にハッとさせられることがとても多いです。地に根ざして暮らしているからこそ出てくる言葉というか、裏付けられた感じがするんですね。

学ぶことのほうが本当に多い。自分たちがやりましたなんておこがましくて、僕たちも集落の仲間に入れてもらって、地元の人たちと一緒にやらせてもらっていて、とてもありがたいなと思っています

平野さんは印象的だったという学びのエピソードを教えてくれました。それは石徹白を見学に来た人を案内している時のこと。上在所(かみざいしょ)という神道の家に住んでいるおばあさんに“石徹白のいいところ”を尋ねました。平野さんは、「人がいい」「自然が豊か」といった返答が返ってくるのではないかと予想するも、返ってきた言葉は「信仰心が篤いところじゃね」というものだったそうです。

>びっくりしました。そんなこと、本当に思ってないと言えないですよね。それが普通に言えるってすごいことだなと。

そして、それが言えるのは、農産物にしてもエネルギーにしても、自然の恵みがあるからつくり出せるということを当たり前にわかっているからなんだろうなと思いました。そういうことを、僕たちは地元の人たちから教えてもらっています。 

こうした地域から得た学びを伝えたいと考え、平野さんは、移住した若手メンバーらと共に、「いとしろカレッジ」という新たな学びの場づくりも開始しました。

全9回のカリキュラムで、集落のフィールドワークから川づくり、自然エネルギー、森林を生業にする方法や伝統食文化についてなど、石徹白の暮らしに触れることで、これからの時代の生き方のヒントを得ることのできるような内容となっています。

最後に、平野さんの「ほしい未来」について伺ってみました。ひとしきり悩んだ後、平野さんが紡いでくれたのは「当たり前の暮らしが、当たり前に続いていく未来」という言葉。

>おじいさんやおばあさんが暮らしているのを見ると、日々の暮らしを楽しみながら、幸せに生き生きとしていらっしゃるんです。そういう暮らしを続けるのが難しい社会になってしまっているので、当たり前に続けていけるような未来にしていきたいと思います。そのためには、やらなきゃいけないことがいっぱいですね(笑) 

かつての日本には「持続可能な暮らし」があったと言われます。しかし、どの時代も、その形は一様に同じではなかったのではないでしょうか。暮らす人、暮らしている場所、標高、天候、道具などなど、諸条件が異なれば、ふさわしい暮らしの形もきっと変わるはず。

石徹白も、この土地ならではの手法として水力発電に取り組み、持続可能な暮らしの足がかりにしてきました。あなたが暮らす・関わる地域における、持続可能な暮らしとはどのようなものでしょうか? ぜひじっくりと考えて、思いついたことを小さく始めてみてください。

以上転載終了

 

◆まとめ

いまでこそ、世界的に、SDGs(持続可能な開発目標)が叫ばれています。この記事は2016年の紹介でですので、彼らの活動は、開始してから既に、13年がたちます。

彼らにとっては、持続可能な世界の実践が、既に行われていたわけです。そして、彼らの話を聞くと、それは、持続可能という世界を皆が楽しみながら、次につなげていこうという事が、自然に行われているという事です。

彼らの活動のビジョンは、まさに、現代における「共同体の新しい形」であり、「農の新しいかたち」とは言えないでしょうか? では、次回もお楽しみに

投稿者 noublog : 2020年09月29日