| メイン |

2016年08月15日

ブータン農業の父は、日本人~異国の地で再評価された日本農業

pict07[1]

 

世界一幸福な国と言われるブータン。そんな国の民たちの「幸せ」に大きく貢献した日本人がいます。

ブータンの農業発展に人生を捧げ、国民のみならず国王の信頼も厚かった「ブータン農業の父・西岡京治」の輝かしい功績を、ご紹介していきます。

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

以下、「国王からも爵位。日本人「ニシオカ」はなぜブータンで国葬されたのか?」より引用

 

■人物探訪:「ブータン農業の父」、西岡京治

1992(平成4)年3月26日、ブータンで1人の日本人が国葬に付された。30年近くも同国の農業振興に尽くして、「ブータン農業の父」と呼ばれた西岡京治(けいじ)である。葬儀委員長は農業大臣のレキ・ドルジ氏。ブータン西部のパロ盆地を見渡せる丘につくられた葬儀場で、なきがらは荼毘(だび)に付された。

おおぜいのラマ教の坊さんたちによる読経が果てることなく続いた。葬儀には5,000人もの人々が弔問に訪れ、西岡の妻・里子と娘の洋子は、和服に似た民族衣装キラに身を包んで、人々のお悔やみの言葉を受けた。

葬儀の後、里子がパロ農場の西岡の事務室に入ると、国王の伯父で厚生大臣のナムゲル・ウォンチュックからの電報が机の上にあった。大臣が視察先のシェムガン県パンバン村から打った電報だった。ブータン南部の僻村である。

パンバン村の人たちは、あなたのことを尊敬の気持ちをもって覚えており、あなたがふたたび村を訪れてくれることを、心からお待ちしております。

あなたがはじめた開発の仕事はいま、実を結んでいます。村人たちは、「あなたの献身的な働きがなければ、自分たちの進歩はなかっただろう」と言っています。かれらはいつまでもあなたに感謝し続けるでしょう。

同様の気持ちを抱いたブータン各地の人々が5,000人も葬儀に参列したのである。

 

■「この風景は、長野県の伊那谷あたりによく似ているよ」

西岡がブータンに定住を始めたのは1964(昭和39)年5月だった。日本国内ではその年の秋に開かれる東京オリンピックの準備が急ピッチで進められていた頃だ。

当時のブータンは農業国なのに、土地も狭く、高地で気候も厳しいため、食料の自給もできない状況だった。ブータン首相は「日本の専門家に来てもらって農業の近代化を図りたい」という意向を持っていた。その専門家として推薦されたのが西岡だった。

その頃、西岡は大阪府立園芸高校に務める傍ら、大阪府大・山岳部のOBとしてネパール探検隊にも参加して、植生の調査をした経験もあった。西岡は自らも海外技術協力団(現在の国際協力事業団、JICA)にブータンの農業指導に派遣してくれるよう志願した。

話が持ち上がってから2年の後に、ようやく事業団から派遣決定の通知が届き、妻・里子と2人で出発した。2人はインドのカルカッタに飛び、オンボロ輸送機に乗り換えて、ブータン国境近くの町に着いた。そこからブータン政府の手配した1台のジープに乗り込み、15時間も山道を走って、ようやく西ブータンの中心地パロに到着した。

一夜明け、木の扉窓を開けた里子は思わず声をあげた。「まあ、きれい!」。目の前にはパロ盆地の大パノラマが広がっていた。澄み切った青空のもとに麦畑が続き、民家が散在している。

「どれどれ…」と目をこすりながら起きてきた西岡は言った。「これはすばらしい! しかし、この風景は、長野県の伊那谷あたりによく似ているよ。日本から、5,000キロメートルも離れた国の風景とは、とても思えないね。」

 

■「日本の野菜のタネはすごいや」

西岡はさっそく開発庁農業局の事務所にでかけた。ここにはインド人の局長と技術スタッフがいた。彼らはインド政府から派遣されて、農業の指導をしていた。西岡が挨拶すると、局長はこう釘を刺した。

「ブータンの農業は、インド人のわれわれが、一番よく分かっています。あなたがいきなり、海のかなたの日本の農業技術を持ち込んでも、成功はおぼつきませんよ。ブータンの人たちは、昔ながらの農業を続けていて、その方法をなかなか変えようとしない」

いきなりこう言われて西岡はかちんと来たが、よく聞いてみると、本格的な農業試験場1つ持っていないことが分かった。

西岡はブータン政府に頼んで、200平米ほどの田畑を借りた。そして1213歳の少年3人を実習生としてつけて貰った。西岡は、まず彼らにダイコンの栽培を教えた。

ダイコンは昼と夜との気温の差が大きいほど、よく育つ。3ヶ月ほど経って、引っこ抜いてみると、30センチほどにも育っていた。少年たちは「わあ、ずっしりと重い」「日本の野菜のタネはすごいや」。

さらにトマトキャベツなども作り出すと、噂が広がって、知事や国会議員なども試験栽培の田畑を訪れ、「うちの県でも作れようか」「わしの村でも、こうした野菜が作れたら、どんなにいいだろう」と言い出した。

さらに、その1人の勧めで、人の集まるパロ城の入り口に野菜を並べると、「うちの村にも、野菜作りの手ほどきをしてもらえまいか」「タネを分けて貰えると、ありがたいのだが」と大きな反響があった。

(引用終わり)

 

培われてきた日本農業の実力がブータン国民にも広く評価されるにつれ、西岡氏の活躍の場は、さらに広がっていきます。

続きは、次回にて。

 

 

投稿者 noublog : 2016年08月15日 List   

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.new-agriculture.com/blog/2016/08/3661.html/trackback

コメントしてください