2021年3月9日
2021年03月09日
コロナの時代に「百姓仕事」を考える。格差社会を超える「働き方改革」のために
コロナが発生し、社会がいたるところで、不具合がおきだしてから、ほぼ一年になる。この間、働き方は非常に変化してきている。
今やリモートによる会議はあたりまえになり、地方に本社がある企業の東京支店を閉鎖させ、変わって、社員は自宅から営業に向かうといった会社も現れてきている。また、本社機能を全て地方に移転する企業まで登場してきている。
その中にあって、農業は、働き方に生きがいを生み出し、知らず知らずのうちに、人と自然がお互いに適応し共存していける環境を形成していけるのだ。
私権社会に特有の時間を切り売りする「手段」としての労働から、労働それ自体が楽しいと思える活動へ。本当の「働き方改革」を実現させる可能性は百姓仕事の中にあると・・・・・
まさに自然と労働の一体化。そこには時間という概念は無く、充足感がその単位を包括するまでに至る世界を生み出す。
転載開始
去年の今ごろは中国で発生した新型コロナ(COVID-19)という感染症の恐ろしさに、ようやく人々が気づき始めたころだった。あれから1年――。
感染症もじきに収まるだろうという期待も虚しく、いまだに当たり前の日常を取り戻すことができずにいる。医療現場の逼迫はいよいよ深刻な状況だし、病人を見舞ったり、年寄りを介護したり、はては身近な人を看取り、まともな葬式を出すことすらままならないつらい日々が続く。
ただ、悪いことばかりではない。新型コロナは、何が本当に大切かをわれわれに気づかせてくれる鏡にもなっている。
そのひとつが、農業という仕事のもつ「強さ」と「楽しさ」だ。
◆ブックレット『新型コロナ19氏の意見』から
昨年5月上旬に農文協ブックレットとして『新型コロナ19氏の意見』を緊急出版した。原稿を依頼したのは3月中〜下旬、締め切りは安倍晋三首相(当時)による緊急事態宣言発出直前の4月上旬という、まったく予測がつかない状況のなかで、ウイルス学や国際保健学をはじめ、哲学、人類学、社会学など各分野の専門家や、ジャーナリスト、探検家、農家まで多彩な顔ぶれが、知恵をしぼって新型コロナの引き起こした事態を分析してくださった。
そのなかで、農民作家の山下惣一さんは、玄海灘に面した畑で農作業を続ける自分は都市生活者のような「3密」とは無縁で、新型コロナがはびころうが、日常に変化はない、と書いた。そして、新型コロナはアマゾンの原生林の開発に見られるような「地球に巣食う白アリ(=人間のこと)への逆襲である」と喝破し、「身土不二の食生活と小規模家族農業こそがそれを根本的に解決する道だ」と述べる。「『新型コロナでわかった田舎暮らしの強さ確かさ』……田舎の実家を大切にしておけ」と。
一方、経済アナリストの森永卓郎さんの主張はこうだ。新型コロナによって中国から輸入が止まったとたんに、日本ではマスクから電動アシスト自転車、厨房設備やトイレに至るまで、日常生活を支えるあらゆるモノの供給に支障をきたした。それは最もコストの安いところから部品を大量調達するというグローバル資本主義の矛盾が露呈したということではないか。また、感染拡大が東京、大阪などの大都市でまず起こったように、大都市一極集中の脆弱性もあらわになった。今後の社会に求められるのは「大規模・集中」から「小規模・分散」への経済の転換だ。それを実現するには農業のあり方こそ重要だと言う。大規模農家に農地を集中させるのではなく兼業農家を守り、消費者も含めたより多くの人々が農業生産にかかわっていく。目指すは食べものや生活に必要なものを、できるだけ近くの人同士で分かち合う「隣人の原理」(ガンディー)の実現だ。それには、都会に住み、消費するだけのライフスタイルの転換が求められると説く。
◆「仕事の楽しさ」まで奪う格差社会
東京出身の経済アナリストである森永さんがこういう主張に至ったことも意外だが、自らそれを実践しているというから驚かされる。森永さんは埼玉県所沢市という「トカイナカ」(都会と田舎の中間)に住み、20坪ほどの畑を耕しながら、ラジオの生放送などに出演するため週2〜3回、1時間半ほどかけて電車で東京に通っている。農業をはじめたきっかけは群馬県昭和村の道の駅が運営する体験農園。そこに週末だけ通っていたのだが、コロナ禍で県境を越えた移動が困難になったことから、近所の畑を借りて農業をはじめたのである。「小さい農業」よりさらに小さい「マイクロ農業」の実践だ(詳しくは、3月に農文協から発行される『森永卓郎のマイクロ農業のすすめ』参照)。
近所の畑で農業を始めてまず気づかされたことは、農業は失敗の連続であることだ。道の駅の体験農園ではプロ農家が土づくりや苗をお膳立てし、日常の管理もやってくれたから無事育っていたのだった。素人の自分がなんでも育てられるほど農業は甘くない。にもかかわらず、農業は「楽しい」。周りの農家がいろいろアドバイスしてくれるのだが、そのアドバイスが〝みんな違う〞。つまり(根本的に言えば)農業にマニュアルは通用しない。誰にもしばられることなく、自分の意志にしたがい、自分で工夫するからこそ農業は楽しいのだ。毎朝2〜3時間畑に立つ時間は、マスクをする必要もなく、愛煙家である森永さんは野良仕事の合間に至福の一服を味わうこともできる。
森永さんは、『マイクロ農業のすすめ』でこうした「楽しい仕事」の対極にあるものとして、ウーバーイーツに象徴される現代の厳しい労働現場についても書いている。
ウーバーイーツとは現代版の出前持ちのことだ。料理を注文したい人はウーバーイーツのホームページにアクセスし、提携した飲食店の料理を選ぶと自転車やバイクで望みのところに配達される。消費者はクリックするだけで料理が届き、支払いもクレジットカードやスマホで済む。コロナ禍による外食の自粛に苦しむレストランが提携店に登録することで急成長し、コロナ禍で失業した人びとがその配達員となっている。
ここで問題なのは、配達員はウーバーイーツに雇用されているわけではなく、「個人事業主」として登録されていることだ。だから雇用保険も労災保険も適用外であり、たとえ配達中に事故にあっても、なんの補償もなされない。そしてスマホのGPS(位置情報)によって管理され、将棋の駒のように動かされて、その効率も厳しくチェックされる。この計器による徹底した労働管理はアマゾン(通販を主力とする巨大IT企業)の倉庫でのピッキング(伝票や指示書にしたがって、商品を取り出す作業)の現場も同様だ。作業員はハンディー端末を持たされて、ピッキングすべき品目との距離から瞬時に割り出される目標時間が提示される。もちろん、出前もピッキングも大事な仕事であるが、ここでは労働者に対する敬意はなく、誰にでも置き換え可能な駒として扱われているようにみえる。ウーバーイーツでは、新型コロナのために客とのちょっとしたやりとりもできにくいことも仕事のつらさに拍車をかける。
森永さんは現代の格差社会では「所得や資産」の格差だけでなく、「仕事の楽しさ」の格差も進んでいるという。それは大企業もけっして例外ではなく、知的で創造的な部分を担うのは、親会社のひと握りの経営層や企画部門に限られるという状況が進んでいる。
これに対して、森永さんがいうように、なぜ農業の仕事は「楽しい」のであろうか。
◆「百姓仕事」の楽しさの謎に迫る『田んぼの絵本』
「農業がなぜ楽しいか」という問いは、農家にとってあまりに当たり前すぎて、答えが見つからないかもしれない。
その手がかりを与えてくれるのが、『うねゆたかの 田んぼの絵本』である(全5巻、①『田んぼの四季』、②『田んぼの動物』は既刊。③『田んぼの植物』は2月、④『田んぼの環境』、⑤『田んぼの文化』は3月発行)。
著者の宇根豊さんは福岡県糸島市の「百姓」。福岡県農業改良普及員時代の1978年に減農薬稲作運動を提唱した人として知られている。本誌でもたびたび紹介してきたが、イネの株元に虫見板と呼ばれる下敷き状の板をあて、稲株を叩いて虫の発生状況を観察することで、防除暦に頼らない農薬の使い方を普及させた。その運動を通して、水田には害虫でも益虫でもない虫が圧倒的に多いことをつきとめ、「ただの虫」という概念を広めた。2000年福岡県を退職し、福岡県二丈町(現・糸島市)に移住、NPO法人「農と自然の研究所」を設立、この団体を母体に、「田んぼの生きもの調査」を開始する。地域の農家と子どもが一体となった調査はやがて全国に広がり、「田んぼの学校」と呼ばれるようになった。
その宇根さんが初めて子ども向けの絵本を書いた。絵本の舞台は宇根さんの田んぼであり、描かれるのはその「百姓仕事」である。宇根さんは苗代で育苗し、成苗2、3本を手植えしている。除草剤や農薬は一切使っていない。だからここに出てくる「お百姓」は宇根さんそのものなのだが、同時に、長年にわたって農家とつき合いながら、百姓仕事とは何かと問い続けるなかで気づいてきた、多くの農家の思いや感覚も投影されている。この絵本に登場する「お百姓」は、宇根さんであると同時に多くの農家でもある。
この絵本では、その田んぼと百姓仕事をめぐる素朴な疑問をめぐって、小林敏也さんによるダイナミックな絵ページと写真やグラフなどによる解説ページが一見開きごとに交互に展開していく。少しだけ紹介しよう。
「なぜ赤とんぼは人間に寄ってくるの?」のページでは、田んぼの中で疑問をもったお百姓が赤とんぼ(ウスバキトンボ)にその問いを投げかける。お百姓は赤とんぼの言葉から、自分が田んぼの中で仕事をするとイネに止まっていた虫たちが驚いて飛び立つこと、そして自分の姿が赤とんぼにとっては、小さな虫たちがいることの目印になることに気づく(①『田んぼの四季』)。
「足あとにオタマジャクシが集まってくるのはなぜ?」のページでは、田植え後ひと月ほど水を張った田んぼの中で、お百姓が草取りに歩いた足あとにオタマジャクシがたくさん集まる謎に迫る(②『田んぼの動物』)。水温が上がる初夏の田んぼでは、足あとのところは一段深くなっていて水温が低い。オタマジャクシは暑さを避けて、そこへ集まってくるのだった。
田回りの意味を問いかける話もある(③『田んぼの植物』「畦で草が『整列』するのはなぜ?」)。春のアゼでは、田んぼに近いところにヘビイチゴやオオジシバリなどが、遠いところにスイバやアザミなどが生え、その間にはオオバコやチカラシバなどが生える。それは、田んぼの近くには湿ったところを好む草が、遠いところには乾燥したところを好む草が生え、その間は人に踏まれても強い草が自然に残っていくからである。つまり、アゼの草を適度に刈り、田回りをすることが、アゼの草のすみ分けに一役買っているのである。
◆知らず知らずのうちに生きものを育てている
こうした疑問は、農家は口にしないまでも、日々の農作業の合間にふと感じることではないだろうか。『田んぼの絵本』はその疑問を解きほぐすことで、百姓仕事がイネを育てるだけでなく、田んぼやアゼ、用水路の植物や動物を豊かにする役割も果たしていることに気づかせてくれる。
そうは言ってもお百姓は赤トンボにエサを与えたり、オタマジャクシが休む場所をつくるために、田んぼを歩きまわって草取りをしたり、田車を押しているわけではない。アゼの植物の種類を増やそうとして田回りをしているわけでもない。あくまでイネの生長を助けるための仕事である。だが、イネのためと思っていることが、知らず知らずのうちに、ほかの生きものたちの生長も助け、田んぼ周りの環境を豊かにしていく。そして、自分の働きかけ(百姓仕事)が、田んぼのゲンゴロウやアゼのキンポウゲを増やしていることに気づくことが楽しさにつながっていく。
この「知らず知らず」「同時に」ということが、マニュアル化しにくい百姓仕事のおもしろさではないだろうか。
そもそもイネを育てる仕事そのものが、田んぼ一枚一枚の違いや、毎年変わる天候などによって一筋縄ではいかない難しさがある。精農家はそれを、イネに働きかけ、その結果を観察することをとおして感じとる。さらには、その働きかけが田んぼの生きものを豊かにし、そのことに日々の仕事の合間に「ふと気づく」。そこに百姓仕事の楽しさ、おもしろさが尽きない秘密があるのではないか。もし、これらが別々の仕事として行なわれるのであれば、それはそれでマニュアル化が可能になり、とたんにつまらない仕事に転化していくことだろう。
これまで子どもたちの学校や地域での稲作体験では、どういうわけか、田植えもイネ刈りも手仕事が基本となってきた。そこには、「多くの子どもがかかわれるように」とか「昔の仕事の大変さを知る」といった教育的な意味づけはなされていたかもしれないが、手仕事の意味そのものが問われることはほとんどなかった。
『田んぼの絵本』は「知らず知らず」「同時に」という自然とつき合う百姓仕事の本質が、手仕事の稲作体系においてより鮮明に現れることに気づかせてくれる。それは、現在の機械化された稲作体系のなかでも、少なからず残っていることではないだろうか。
◆コロナ後の社会を「仕事の楽しさ」から考える
『新型コロナ 19氏の意見』に巻頭エッセイを寄せた哲学者の内山節さんは、むらでの労働には「仕事」と「稼ぎ」のふたつがあるという。商品経済のなかで、おカネを得るための労働が「稼ぎ」であり、それでは割り切れない労働が「仕事」である。実際にむらでは共同体を維持するために溝さらいや道普請、お宮の掃除などさまざまな「仕事」がある。それだけでなく、田んぼでも山でも農家の労働には、イネを収穫し、用材を生産しておカネを稼ぐことだけでは割り切れない「仕事」の部分があり、そこに楽しさがあるのではないか。
まもなく、農文協から『内山節と語る 未来社会のデザイン』(全3冊)が発行される。東北地方の農家を前に語った3年分のセミナーをまとめたこの本のなかで、内山さんは、いま進められている「働き方改革」の方向に疑問を投げかけている。現代の企業社会は働く側も雇う側も労働を「手段」とする構造に取り込まれており、そのことが働く側を追い詰めている。この構造を変えることなく、ただ労働時間を短くしても、労働はつまらないまま密度が高まるだけで、本当の改革にはならないのではないか、と。
「むしろいま多くの人たちが望んでいるのは『労働時間なんて気にしないでもやりたいと言えるような労働をやりたい』ということ」ではないか。(自営業の人は)別に『何時間働いたからいくらの収入になるはずだ』という計算なんてやっていない。もともとはみんなそうやって暮らしてきた。それがいまのような状況になって、皆が追い詰められてきた。だから(中略)『この労働でいいのか』という、そのことを問い直さなければならない。そうなると、いまの資本主義という経済の仕組みや企業の仕組みをどう改革したらいいのかという課題になる」(『2 資本主義を乗りこえる』より)。
時間を切り売りする「手段」としての労働から、それ自体が楽しいと思える労働へ。本当の「働き方改革」を実現させるヒントは百姓仕事の中にある。(農文協論説委員会)
以上転載終了
投稿者 noublog : 2021年03月09日 Tweet