【コラム】集落営農による新規就農者受け入れの可能性 |
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2012年07月24日
農から始まる地域の再生~新しい生産集合体をどうつくるか?6.近代意識からの脱却こそが、農が持つ可能性を開いていく!
これまで、シリーズ「農から始まる地域の再生~新しい生産集合体をどうつくるか?」では、以下のような記事を扱ってきました。
・シリーズ1 プロローグ
・シリーズ2 戦後の民主化・農地解放は、農村共同体解体の歴史!?
・シリーズ3 農村共同体解体の背後には農協の存在が大きく関わっている!!
・シリーズ4 自治意識の高い村落共同体にとって、土地所有制度はどうでもよかった!
・シリーズ5 農地は誰にゆだねたらいいのか?
これまでのシリーズ記事を踏まえ、現在の農業の問題点を整理すると
それでは、これらの問題を突破する為に、今後、農業生産者にはどのような認識や行動が求められているのでしょうか?
先に進む前に、今後とも「新しい「農」のかたち」をよろしくお願いします。 ポチッ
1.生産性が低い原因は、「作る人」に止まっていることにある
元々、自然豊かな環境に恵まれた日本では、農業は、江戸期まで諸外国に比べ実に生産性の高い産業だったと言えます。
また、アジアにおいて唯一植民地とならず自立できたのも、生産性と自給力の高さ、さらに庶民の豊かさからだったと言われています。
ちなみに、江戸時代の百姓の豊かな暮らしぶりは、以下のサイト
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/3-20.htmに詳しく紹介されています。一節を紹介します。
近世の農業の主産物である米もまた、商品作物であったことだ。これは年貢として幕府や藩に納入されたものが販売されただけではない。百姓もまた米を販売しており、その量は、年貢米の販売量を越えてさえいた。1710(宝永7)年に新潟港から積み出された米の量を見ると、藩の蔵米が31万9000俵に対して、百姓の販売する自由米が70万俵となっているのだ。百姓もまた米を大量に販売した。
農産物を加工した手工業製品も多く入っている。しかし誤解してはいけないことは、これらの農産加工品もまた百姓が生産していたことだ。百姓とは農民のことではなく、農業と手工業を兼ねるものも数多くいたし、彼らは自ら作った農産品や農産加工品を直接販売する商人でもあったことだ。
稲はすでに早稲・中稲・晩稲の品種が中世において存在していたが、それぞれが各地の自然条件に合うように品種改良され、反当りの収量を増加させたり、二毛作を普及させるなどの波及効果をもたらした。
江戸時代の人々の豊かさが実現できたのは、決して大開発による米の増産があったからではない。諸外国からの安い農産物は輸入せず、自給体制を構築するという意思=鎖国によって、諸国でその土地に根差した様々な商品を生産し、流通させるという自律的な動きが庶民の間で生まれた からである。
元々、「シリーズ4 自治意識の高い村落共同体にとって、土地所有制度はどうでもよかった!」
でも述べたように、日本の村落共同体の自治意識が高さから生まれた動きでもある。
従って、現在の日本農業の収益性が低い一因は、農業生産者が「作る人」にとどまっている事に大きな原因があると言える。 農産物を如何に工夫して生産したかを流通業者や消費者に説明し、その工夫に見合う対価をつけて販売すれば良いのだが、これまでは農協任せ、その農協にしても、慣行栽培だろうが有機栽培だろうが、同じ農産物なら一緒、消費者がどのようなものを求めているか生産者にフィードバックすることもなかった。つまり、生産者はただの作る人に押し込められていたのである。
つまり、これからの農業には、これまでの狭い生産領域に止まらず、加工や販売・流通など、如何に多くの生産者や消費者との関わりを持てるかどうかが問われているのではないでしょうか?
2.余力を創り出し、社会(地域)や集団ためにどれだけ時間を有効に使うかが鍵
さらに、近世の百姓は、生産性の向上により余力を生み出し、その余力で農産物の生産・加工・販売以外に、様々な地域の行事への参加や、技術や社会の勉強も行っていた ことが、下記の記述からも分かります。
百姓の休日は、16世紀末には年間20日ほど。それが17世紀後半から18世紀後半には30日ほどだったのが、19世紀ともなると通常で40日ほど。土地によっては60日以上、最大80日の休日を取った村も出てきたという。
そしてこの梶ヶ谷村の例でもわかるように、百姓の休日は、村の年中行事の日でもあった。
農書によって新しい農業の工夫が広がったことで示されたように、村においても識字率の向上と、文字文化が広がったことをも示していた。百姓が商業に従事することは文字の読み書きが必須条件になっていたのだ。それゆえ各地に寺子屋ができたし、寺子屋と言う学校が設けられなくても、村の識字層である庄屋や大商人や職人の家に村の子供たちは通い、文字の読み書きを習っていた。
こうして村にも、近世になって発展した儒学や医学などの学問に従うものが生まれ、農業を科学的に考察することや村の歴史を探求する活動も生まれた。そして、こうしたことを背景として、近世後期には、村にも国学や様々な実学を修め、国の行く末を案じ、実際に藩政改革や幕政の改革にも携わる人々を多数輩出することとなったのである
つまり、余力の創出が付加価値の高い商品を生み出す動員となり、それが人と人或いは集団と集団とのネットワークとなり、様々な価値を創出し、諸外国にも負けない国力をつける動員ともなっていったのである。
このように元々日本人が持っていた自治意識=自立性、或いは誰もが集団課題を担うという役割意識が失われていったのは「シリーズ2 戦後の民主化・農地解放は、農村共同体解体の歴史!?」でも整理しましたので参照願います。
それでは、今後、農業者はどのように変わっていけば良いのでしょぷか?
3.近代意識からの脱却(否定視から肯定視への転換)こそが、農が持つ無限の可能性を開いていく!
明治以降、急激な市場化は、農村にも影響を与え、何をするにもお金がかかる社会になった。従って、農業だけでは食って行けず、あぶれた労働者は豊かな生活を求めて、都市(工場)労働の可能性へと収束していく。その結果が、現在、ほとんどの農家が2男・3男は都市へと移り、農村でも大半の農家が兼業農家という実態である。
しかし’70年以降、貧困の消滅により生産様式が大きく転換した。それまでの工業生産から企画やサービス、出版や教育など、人間の労働力=創造や認識そのものが価値となる意識生産が主役となってきた。
農業に期待されている「教育」、「やりがい」、「顔が見える」、「安全性」といった役割、キーワードも、すべて意識生産(類的価値)の領域の話です。「顔が見える」というのも、顔写真が貼ってあれば買う気になるわけではないでしょう。目に見えない意識の話だからです。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=84841より引用
現に、非農家出身の若者や都市住民が農業の可能性を感じ、農業研修や体験に集まってくるのもその理由からです。本当の充足は、人生の過半を費やす生産活動や働く場を、人々が充足できる場に変えていくことである。つまり、人々は物的価値よりも、その生産に携わる人の意識や、具体的な活動に人々が魅力を感じるのです。
しかし、海外や流通市場からの安い農産物の流入、或いは米離れが進んだことにより、これまでのように農家は農協や行政に依存できず、さらに、儲からないから、農家の子供の農業離れが進み、生産者自身では農業や地域を変えることはできないという、強い不可能視・否定視が刻印されてしまっている。この意識ではまともに社会(人々の意識)を対象化することはできず、具体的にどうすると考えることもできないのである
社会は政治家や誰かが仕切っており、自分達ではなんともならないという意識である。しかし現在は、これら農協や政治家に任せておいてうまくいくとは誰もが思っていないのも事実である。であれば、この状況を直視し、自分達でどうしようかと、現実の対象に目を向ける=肯定視に頭を切り替えることが必要 なのである。
つまり、農業(或いは地域)を変えていけるかどうかは、我々生産者の意識に委ねられているのである。
各地の生産者の間では、これらの問題を潜在思念で捉え、具体的に動き出し、成功している事例もあるので、次の記事で紹介したいと思います。
それでは、次回を楽しみに
投稿者 staff : 2012年07月24日 TweetList
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