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【シリーズ】日本の農業政策から、今後の農を考える ~農業政策とは何だったのか?~

※農業政策=国が農業のあり方を決め、制度化したもの
もともと、今シリーズをはじめたきっかけは、現代の農業政策に対する違和感からでした。
その違和感とは、農業政策によって様々な農家・農業への支援が行われているにも関わらず、一向に農業が良くなる兆しが見えないことです。
【シリーズ】日本の農業政策から、今後の農を考える 3.現在の農業政策から見る、断層・・・農業や地域の活力再生が鍵
http://blog.new-agriculture.com/blog/2013/05/001415.html [1]
一体、(農業)政策とは何なのだろうか?そんな疑問から今シリーズは始まりました。
歴史を追って、農業政策のおこりから、現代まで、どんな政策が何故行われたのかを調べて行きました。
結果として、「政策」とは何だったのか。何故現代の農業の問題が解決しないのかが、はっきりしたように思います。
今回は、これまでの調査結果からのまとめです。
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1.農業はみんなの課題だった。 ~江戸時代~
 江戸時代、農地や山林の多くは、村落共同体のものであり、村のみんなで管理されていました。現代のような個人の「所有権」はなく、共同体の規範の下に、使用が認められていました。
 現代のような個人を対象とした「農業政策」はほとんどなく、幕府は、村単位で年貢を徴収することは決めていましたが、それ以外はほぼ村落共同体に自治を任せていたのが実態のようです。
 つまり、江戸時代においては、農業の課題は「みんな課題」であり、だからこそ、自分たちで、農業の様々な課題を解決していたのです。
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【コラム】江戸時代の農業政策
http://blog.new-agriculture.com/blog/2013/04/001405.html [2]
2.みんな課題から私権課題へ ~明治時代~
 ところが、明治時代に入り、近代国家が成立すると、これまでの農業のあり方は一変してしまいます。
 欧米諸国からの圧力に対抗すべく、近代化をおし進めるためには、労働力・資本力・技術力などあらゆる面で力が必要でした。
その基盤となったのは、江戸時代と同様「農村」で、税というかたちで、労働力や年貢が徴収されていました。明治に入ると、税の徴収はますます厳しくなり、収奪に近いものであったと思われます。
明治に入り、農民の生活を大きく変えた生活が「地租改正」です。
江戸時代までの年貢制度は、「米」を納めさせて、政府のほうで換金を行っていましたが、この方法では、その年の米の出来具合で、税金の額が変わってしまいます。
そこで、安定して税金を徴収するため「地租改正」を行いました。
これは、地価の3%の金額を、税として支払うというもので、従来の米で支払う形から、お金で支払う形に大きく変わりました。また、これによって、農民一人一人に農地の所有権が与えられることになったため、個々で税金を納めねばならなくなりました。
つまり、「みんな課題」であった農業は、「私権課題」へと大きく転換してしまったのです。
しかし、農民にとっての、もっとも大きな問題は、地租改正ではなく、それを制定した明治政府(統合階級)にありました。
地租改正の税収の基本となる、地価も、正当に決められたものではなく、統合階級の都合のいいように、設定されたようです。
田の所有権を与えられても、税が払えない農民は、結局売り払う他なく、大地主が生まれ、小作人が増えていきました。

「それでなくても 明治維新により「天子様」の世の中になり 楽になるはずだった生活がかえって苦しくなってしまったのである。
 その原因のひとつは地租の設定の仕方であろう。勿論、地租改正によって「土地が個人のものになった」という利点があった事は見逃せない。しかし、土地に対する地租の決め方が問題だった。以下に地租決定方法について書かれた文章を見てみよう。
 「・・・しかし、実際の政府の意図は、旧貢租水準の『目標額』を上から強制的に押し付け、高額地租を確保することにあった。
 政府はまず、国費の必要額にもとづいて各府県の地租収入予定額をきめ、府県はそれを各町村にわりあて、町村は各戸にわりあてた。上からの『目標額』設定、そして、それに応じて各戸の地租額が算定されたのである。
 全国各地で、地価の決定をめぐって、農民と改租掛官・地方長官との間に激しい争いがおこった。高い地価にもとづいて高い金納地租を払わされることは、農民にとってまさに死活の問題だったのである。そして地方長官は、この反対を強引な形でおしつぶした。」

明治維新の地租改正は何のために行われたのか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=274457 [3] 
つまるところ、彼らは、農民のことは全く考えておらず、自分たちの既得権益を守るために、強制的に政策を執行していき、反対する者は、愚民といって憚らなかったのです。
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【コラム】明治からの農政~近代化と農の崩壊への歩み~
http://blog.new-agriculture.com/blog/2013/04/001410.html [4]
3.アメリカ支配の農業政策~農政には答えが出せない~  ~戦後から現代~
さらに、第二次世界大戦後、日本はアメリカの占領下におかれますが、戦後打ち出された農業政策もまた、統合階級の都合の良いように執行されています。
具体的には、「農地解放」によって、地主が所有していた農地も、完全に個人個人に分配され、農業が個人課題になってしまったこと。
さらには、「余剰作物処理法」や「MSA協定」によって、安価なアメリカ産小麦が大量に日本に入り込み、食の欧米化が急速に進んでいったことが挙げられます。
洋食化が進み、輸入農産物が増えた事により、米価をはじめとする国産の農産物価格の低迷が続き、都市部と農村部の経済格差が発生し、農業者人工の減少、農地の遊休化が進んでいます。
戦後の1961年に【農業基本法】が制定されましたが、上記のように米余りによる生産調整、外国からの輸入自由化圧力、高度経済成長による商工業との所得格差の増大による人口の都市流出、後継者不足などの多くの問題を抱える事になり、農政の転換が迫られ、1999年に新しく【食料・農業・農村基本法】が制定されました。
しかし、基本法に基づいた政策が行われているとはいえ、今でも耕作放棄地が増え、農業者人口も減っていく現状を見ると、農政が低迷する農業に対しての、答えを出せないということが見えてきます。
これは、明治時代の既得権益を守る特権階級たちと同じ構造で、現代も、自分たちのことしか考えていない。だから「みんなの農業を守るor農業をどうしていくか」といった発想に乏しいから、答えを出せないというように考えられます。
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【シリーズ】日本の農業政策から、今後の農を考える  2.日本の農業政策を探る
http://blog.new-agriculture.com/blog/2013/04/001399.html [5]
4.農業政策とは何だったのか?
ここまで、歴史を振り返ると、農業政策とは、一見、「みんなのため」であったり「国のため」に執行されていたように思えていましたが、実際は、全くそんなことはなく、その時代の、「統合階級」の都合の良いように、行われていたのが実態だったようです。
そのような歴史を踏まえれば、現代の活力の低下した農業をどうするのかは、農政に頼るのではなくて、江戸時代のように、農業を「みんな課題」として、集団で考え、自分たちで答えを出していくことが求められているように思います。
改めて、農業とは、国の礎であり、みんなにとって必要不可欠なものではないでしょうか。
そして、地域で、集団で農業を良くしよう、なんとかしようという先端の事例が、今もちらほらと出始めてきています。次回は、その事例を紹介し、今後の突破口を提示した上で、農業政策シリーズの最終回とします。
最後まで、お読みいただき、ありがとうございました。
次回もお楽しみに☆

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