新しい「農」への途(1-9)―戦後農政の超克―
概要は、前回 [1] の通りですが、もう少し中味に迫ってみます。
◆自ら「自給の道を断った」1961年の農業基本法の問題性
1961年農業基本法は、以下の左側のような目標を掲げて実践されました。
しかし、実態は右側のようなことになった、といいいます。
「①生産品目の拡大」は、「果樹・畜産・酪農・各種野菜etc.」を目指したこと迄は分かるとしても、それが何故『地域専業路線』になるのか?、という問題です。
途上国に対する植民地政策においては、グローバリゼーションの名の下に(「適地適作」の正当性を根拠に)、「単一作物のプランテーション」を強要し商品作物生産一辺倒にさせることで自給作物生産を根こそぎにしてしまった、という歴史があります。(*参照→「飢餓と格差はなぜおこるのか?!」) [2]
そのことで、プランテーション主は冨を得ましたが、自給の道を閉ざされ、わずかな収入も食糧の購入へと廻さざるを得なかった農業労働者は、以前以上に困窮を極めました。同様のことを強要したことに相当する『農政』は、自滅の道を選んだとしか言いようがないほどの『愚作』としか言いようがありません。
◆農民の自助努力→「稲作兼業農家」という実現態
1960年に池田内閣の下で策定された「所得倍増計画」では、農業の工業化で余った農業労働力を工業労働者に振り向けるというものでした。そして、1962年の「農業構造改善促進対策事業」では、数々の補助事業や助成事業、金融制度とセットで「機械化一貫体系」を推進しました。そのことによって、〔農の現場はどうなったか?〕というと、農業は消費の市場と化し、
となりました。集団就職 [3] などにより「農村から都市への大移動」をもたらしたものの、それが一息つくと、皮肉なことに、「②生産基盤の整備」によって整備された(農)道や車の普及によるモータリゼーションによって在宅勤務が可能になって「稲作兼業農家の増加」をもたらします。
それは、〔「地域専業路線」では儲からない〕ので「①生産品目の拡大」路線から撤退し、町場の勤務をすることで生計を立てつつ手間暇を掛けずに成立する「稲作」に回帰したということでもあります。そして、農家自らの工夫による「他産業との所得格差を是正する途」でありました。
それを可能にしたのは、「1942年制定の食糧管理法」による「逆ザヤ」 [4] です。逆ザヤ問題は、1960年代以降の米余りから顕在化し、1969年の減反政策(生産調整に対する補助金と転作誘導の奨励金)開始に至ります。
◆答えにならない「減反政策」
農地改革により不在地主が解体されて多くの自作農家が出来ましたが、それは零細な弱小農家の大量輩出でもありました。高度経済成長によって鉱工業従事者の所得が上昇するほどに、「農⇔工」の所得格差は広がります。
その是正策として打ち出した「農政」は、零細農家の3分の2に農業から退場願うことによる農地集約(=大規模化)であり、機械化によってそれを実現するというのが「③専業農業者の育成」の中身でした。しかし、そうはなりませんでした。
零細農家が自衛策として採択したのは「兼業」でしたので、片手間にでも可能なのは、〔稲作の単作化〕だったのです。
〔食生活の欧米化〕と言えば聞こえがいいですが、正確には「米国の余剰作物の輸出戦略」であったことは、以前の記事(「日本の食文化の破壊」はアメリカの長期戦略として行われた [5] )の通りです。
かくして、〔食管会計の赤字〕が増大し、〔減反・転作誘導政策〕へと移項していくのですが、手間暇の掛かる転作に兼業農家は向かいませんでした。稲作にしがみつき、一攫千金を可能にする「高度経済成長期の農転期待」は、農地の流動化ももたらさずに財政赤字ばかりが増大していきます。
それは、そもそも耕作放棄地を増大させるばかりの減反政策は、「食糧自給力」を低下させるばかりだという根本問題を孕んでいるがゆえに、到底、答えになり得ないことでもあります。
参考:ローカル通信社の「農政」
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戦後処理下の農業政策 混乱からの脱出-1940年代の頃
http://www.local.co.jp/news-drift/nousei-1.html [6]
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高度経済成長期の農政 近代化を疾走-1960年代の頃
http://www.local.co.jp/news-drift/nousei-2.html [7]
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by びん