2021年10月28日

植物は外圧を認識し、互いに連携しながら、集団として乗り越えている

前回の土シリーズは、植物とキノコの関係を扱いました。今回は植物同士の関係について扱いたいと思います。

植物は私たち動物のように動くもなければ、何か言葉を発することはありません。

でも植物たちが互いにコミュニケーションをとっているとしたらどうでしょうか?

 

実は植物がコミュニケーションを行っているという証拠は増えつつあるのです。植物は学習することもできるという報告結果も相次いで報告されており、もしこれが正しければ、植物は情報を蓄え、伝え合うこともできるということになります。

 

まさか!と思うかもしれません。ですが、木々が互いに話し合い、苦痛を感じ、助け合い、仲間の世話をし、コミュニティまで形成することを知れば、植物に知性や感情がないと断言するほうが難しくなるのです。

 

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2021年10月27日

『農村学校をつくろう!』シリーズ-9~江戸時代に学ぶ:本来集団は殖産一体!その中でこそ人は一人前に育つ!

前回の投稿では、江戸時代の子どもたち自身が集団をつくり、そして、地域をつくる役割を担うことで、一人前の大人に成長する基盤として「子供組」「若者組」を見てきました。

 

若者組は男性(13~35歳)の共同生活の組織。それに対して、村の娘たち(12歳~)の組織が「娘組」です。江戸時代の村落共同体には、子供~大人まで、村落自治のための組織と役割が複層的にあったんですね。

 

若者組も子供組も、祭りの運営や火事・地震・津波・風水害・海難事故・急病人の発生等非常事態への対応などは、地域自治で重要な役割を担って、そしてその中で共同体の一員として成長を果たしていったのは、前投稿のとおり。

今回の記事では、女性たちでつくる「娘組」はどんな役割を担っていたのか?そして娘たちはどのように成長していったのか?を追求していきます。

 

 

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2021年10月27日

【農の歴史】第7回 惣村の歴史は農村の歴史~日本独自の村落共同体の原型

今回は農業が日本に定着していよいよという時代から書いていきます。
農業は先の記事でも書きましたが「農業は渡来人支配の歴史でもあり、共同体温存の歴史でもある」という側面があり、徐福達によってもたらされ、奈良、平安で荘園制度で耕作面積を拡大し、農民人口が一気に増えていった時代、それは同時に農業生産が渡来人(公家や支配層)によって多く搾取された時代でもありました。荘園制度に組み込まれた庶民は半ば奴隷的に農業を営み、管理された土地で労働を提供する小作農が一般的でした。

高い年貢に苦しめられた農民は度々お上に訴状を出し、時に一揆も発生しています。縄文集落が奈良時代に農地に変わっていくのですが、そこでの庶民は農地で管理されかつての自ら集団を自治する共同体を失っていきます。しかし、平安から鎌倉にかけて、世が乱れより搾取がひどくなると荘園制度が崩れ、庶民は自ら立ち上がり自治の村を作っていきます。それが惣村の始まりです。

下記のブログに惣村をうまくまとめた記事がありましたのでお借りしてなぜこの時代に惣村ができたのか惣村とはどういう機能をもっていたのかを見ていきます。

「【惣村とは?】なぜ農民たちは自治組織をつくったのか」

中世は、一般に「自力救済」の時代と言われています。それは、自分のことは自分で守るというという意味ですが、それは個人単位だけでなく、組織や地域単位でも重視されました。鎌倉時代末期になると、畿内周辺に農民たちの自治的村落が出現しました。これを惣村(惣)といいます。この惣村では「一致団結」というのが何より重視されます。ゆえに村では掟が定められ、違反者は厳罰に処せられました。

鎌倉時代、農村では、地頭や荘官(領主)からの不当な要求や収奪に対して自衛組織を作って対抗しました。彼らは領主への年貢は村で一括して納入する地下請(百姓請)を行いました。もし領主が過分に税を強要したり、不正に農民から搾取しようとした場合、一致団結して抵抗しました。鎌倉時代は、農業技術の進歩により、荘園では生産性が高まった時代でした。生産力が高まったことで農民の暮らしが良くなると、名主から土地を借りて耕作していた農民たちが、自ら新田を開き、小作農から自作農へと成長していく者も現れました。

こうしたことから、農民の暮らしは徐々に向上していき、荘園で暮らす農民たちは、収穫をあげる努力を続け、とれたものを出来るだけ多く手元に残そうとしました。これに対して、荘園を支配・管理していた地頭や荘官などの武士は、様々な名目をつけて農民たちに臨時の税をかけたり、労働にかりたてて直営地の耕作などに当たらせようとしました。農民たちは、自分たちは下人や所従ではないので、従者のように使われてはたまらないと抵抗しましたが、年貢や公事が滞れば、罰金を取られ、罰金を払えずに下人に身を落とす人もいました。

こうした地頭や荘官の厳しい圧迫に対して、農民たちはだまっていたわけではありません。荘園領主に地頭・荘官の乱暴や非法を訴えたり、年貢を減らすように要求したりしました。こうした要求をするときには、荘園領主に文書を差し出して訴えました。これを百姓申状といいます。その際、農民たちは神社などに集まって共同して行動することを誓い、約束したことを破らないと神仏に誓う文書(起請文)をつくりました。そして、訴えが認められない場合には、農民たちは一致団結して抵抗し、要求を認めさせようとしました。その方法は、主に以下の3つです。

「強訴」・・・村人全員で要求を掲げて、地頭や荘官のもとに押しかける。

「逃散」・・・農民たちが集団で田畑を耕すのをやめ、荘園の外に逃げ出すこと。

「土一揆」・・・刀や弓などを持ち出し、武力によって抵抗すること。

こうして団結を強めた農民たちは、村ごとにまとまり、鎌倉時代の後期になると、地下請(百姓請)といって、荘園領主と契約して自分たちで年貢の徴収や納入を請け負うようになりました。

南北朝時代になり、戦乱が多発すると、農民の自衛組織は、運営面から自治組織(惣村)へと発展していきました。惣村では、寄合という村民による会議を重視し、惣掟という規則を自分達で決めました。乙名・沙汰人などと呼ばれる指導者を中心に、地域の神社などの祭礼を主催した宮座などを核に団結しました

農村内で自作農が増えてくると、これまで名主(古くからの有力な農民)にしたがっていた中小の農民たちも、権利を主張するようになり、荘園内の様々な問題を、名主だけの考えで決めることが出来なくなりました。すると、惣村内での様々な取り決めが必要になりました。

・山野の共同利用はどうするか、
・かんがい用水路の建設・管理をどのように進めるか、
・祭りなどの行事をどのようにしておこなうか、
・盗みなどの秩序をみだす行為をどう防ぐか、
・荘園領主や守護などがかけてくる年貢や夫役にどう対応するか、
・周辺の村と境界をめぐって揉めたときはどうするか、

などについて、名主ばかりではなく、中小の農民もふくめてみなが神社などに集まって相談して決めるようになりました。こうして鎌倉後期から名主・農民たちが村や地域ごとにまとまった、惣村とよばれる自治組織が畿内を中心に生まれました。

惣村内部では、名主を含めた構成員(村人達)は、惣百姓とよばれ、農業の共同作業や、戦乱に対する自衛を通じて結束しました。惣百姓は山や野原などの共同利用地である入会地を確保し、灌漑用水などを共同で管理しました。年貢も惣村がひとまとめに請け負う地下請、もしくは百姓請が広まっていきました。また、惣村は、番頭・沙汰人・乙名(おとな)と称するリーダー(地侍や名主層)によって構成される宮座とよばれる祭祀集団が中心となって運営されました。村の重要な決定事項には、合議機関として寄合(集会)が開かれ、ここで最終決定がなされました。なお、寄合は全員参加が原則でした。

また、戦乱や犯罪から村人の命や財産を守ることも、惣村運営における重要な要素でした。惣村では、団結を守るために村内の掟である惣掟を定め、掟を破ったり、犯罪をおかしたりした者を厳しく処罰しました。

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このように鎌倉後期から自生した惣村は後に江戸時代まで続き、さらに明治以降も農村自治はこの惣村の延長によって続いていきました。

惣村の原理とは・・・
・「一致団結」
・自衛集団から自治集団へ
・リーダーによって構成される宮座という祭祀集団に依る運営
・寄合が最終決定で全員参加が原則
・全てのルールを自ら決めていった
・目的は戦乱や犯罪から村人の命や財産を守る
・団結を守るために村内の掟である惣掟を定め掟を破ったものは厳しく処罰された。

※つまり惣村そのものが、政治の三権を全て担って自らの生きる場を自ら作っていった、まさに縄文時代の共同体が農と中世の危機によって復活していったのです。このような事例は世界でもおそらく日本だけです。

農業にその力があったのか日本人の本来持つ縄文体質(協働性)にその力があったのか、議論が分かれるところですが、水田稲作というのは麦作文化と違って奴隷根性や労働管理された中では生産性は向上しないということの現れだと思います。後に江戸時代に惣村の最小単位が家族単位まで分割された小規模農業は最大の効率と品質を上げていきます。

これから当ブログでも農業と地域、集団のあり方というものを追求していきますが、この惣村の原理に学びつつ、集団発で「農業どうする」を見ていきたいと思います。

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2021年10月21日

『農村学校をつくろう!』シリーズ-8~江戸から学ぶ:子どもたち自身が集団をつくり、地域をつくる重要な役割を担っていた

前回の投稿に引き続き、中世・近世における日本の学び・子育てについて見ていきたいと思います。

前回の投稿では、中世・近世の子どもたちは、大人と常に一緒にいて、農業や生産活動も「真似る」ことで、社会で必要な力を身に付けたことを押さえました。また大人たちも、子どもたちを干渉することなく、のびのびと成長したのです。

今回の投稿では、江戸時代の子どもたち自身が集団をつくり、そして、地域をつくる役割を担うことで、一人前の大人に成長する基盤について見ていきたいと思います。

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2021年10月21日

農から考える自然の摂理~「土の仕組みを探る」:土壌の生態系を救ったキノコ

3億年前、植物や微生物、土を取り巻く生き物たちの変化が土を変え、大地の姿を大きく変えた。
湿地を中心に繁栄していたシダ植物が衰えた後に登場した裸子植物「グロッソプテリス」。マツやスギなど私たちに馴染み深い樹木の先祖と言われるこの植物。彼らの適応戦略が、私たちが慣れ親しむ「森」の原型をつくるとともに、土の仕組みに大きな影響を与えていく。

今回は、大地の歴史5億年の中でも大きな転換期になったといえる「3億年前の土壌」にスポットを当てたい。
主役は、キノコである。

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2021年10月21日

【農の歴史】コラム 古代から受け継がれる焼畑農業~農業を森の生態系に組込む仕組み~

縄文人が最初に行っていたとされる農業は「焼畑農業」と呼ばれます。
「焼畑」というと、「焼払い」などと混同され、森林破壊の印象を持たれることがありますが、実は本来全くの別物。自然と調和した「循環型農業」として世界的に評価されています。
しかし、森の生態系に合わせて行う焼畑農業は、長い時間と労力を要し、現社会ではそれをできる地域が少なくなっています。
この日本でも、今では宮崎県の椎葉村のみでしか行われていない農法なのです。

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2021年10月14日

植物と微生物の関係は、高い外圧に置かれた生物同士が生み出した「戦略パートナー」関係にある

前回は、土中の微生物の働きとそのサイクルについてザックリとみていきましたが、今回はもう少し詳細に踏み込んでみたいと思います。

?なぜ植物の周りには、これだけ沢山の微生物が存在するのでしょうか?

色々調べてみると、土中の中全てに微生物が存在しているわけではないようです!

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2021年10月14日

『農村学校をつくろう!』シリーズ-7~中世・近世における日本の学び・子育てはどうなっていた?

前回までの記事で、農の場を、人材育成や学びの場として活用している事業事例をいろいろと見てきました。

 

これからは、学力や学歴よりも「何があっても生き抜く力」がより求められていく時代。現代の学校教育がどうしても学力に偏ってしまう中、今一度、人間が本来、大人になっていく過程で必要としている学び・子育てのあり方はどのようなものなのか?を整理してみたいと思います。

 

近代的な学校教育が始まる以前の、中世〜近世にかけて。

当時は、大半(約9割)の家庭が農業や漁業で生計を立てており、子育ては、その家業を継ぐ、あるいは農村共同体を担っていく人材を育てることそのものでした。

 

また、子供は授かりものであり、大切に育てる「子宝思想」という考えがあり、とても大切に子育てをされていたのには、一方で、子供が重要な生産力としても見られており、戦力にするということも大きな課題だったからなのかもしれません。

 

当時、子供達はどうやって集団の生産課題や自治の担い手になっていったのでしょうか?

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2021年10月12日

【農の歴史】第6回 日本農業の歴史~、農業は渡来人支配の歴史でもあり、共同体温存の歴史でもある。

日本の稲作の歴史は紀元前900年に遡る。九州の板谷遺跡や菜畑遺跡がその拠点でもある。縄文晩期の最も寒冷化した時期である。ただ、この伝来から拡大までは約1世紀 1000年がかかっておりおそらく寒冷化で食料がなかった時期には拡散していない。紀元前200年に徐福一団が大陸から退去して列島に渡来しており、彼らのその後の伝説が各地にできたことからしてこの時期、縄文の寒冷化が終わり人口が増大に転じた時期、そこを起点にして縄文部落は自らの農業を手掛けるようになっていった。
それは舶来信仰と同時に集落の人員を何とか食い繋げる期待があった。
信仰まで至ったのはそこに登場した稲作技術が待ち望んでいたものであったことの裏返しでもある。しかしこの稲作の登場と稲を神格化する日本人の指向性はその後稲作拡大の原動力となっていった。大きく4つの段階に分けて書いてみた

■第1段階
寒冷期~BC1000年~BC200年
縄文時代の人口削減。縄文中期には26万人いた人口が4万人まで削減した時代。江南地方から渡来 呉越戦争の敗者が日本に漂着。九州で稲作農業始まる。主には渡来人だけの集団での水田農業。土着の縄文人は山に移動し渡来人の農耕をまだ見ている段階。農耕を始めた渡来人と農耕をしない縄文人集落が混在する形。
寒冷期で食料がないから農業を始めたと見る向きもあるが、本当に食べるものがないような時期にリスクの高い農業などを始めるのだろうかというのが疑問。
おそらく寒冷期のこの時期は農業は初めていない。せいぜい渡来人が縄文人を取り込んで自分たちの技術を教えて小規模の水田稲作を始めた段階だったろう。

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2021年10月07日

農から考える自然の摂理~「土の仕組みを探る」:なぜ土は酸性やアルカリ性になるのか

「酸性の土地では作物がうまく育たたない」。

農業ではよく聞く話。たしかに酸性というと生き物に悪いイメージもあるが、植物との関係はどうなっているのか?

実際、土壌の酸性化は、多くの植物にとって歓迎できない事態である。
酸性土壌になると、有害なアルミニウムイオンが溶け出し、植物の根の生育を阻害してしまう。さらに、植物生育に必須なリンが水に溶けにくくなり、根から吸収しにくくなってしまう等の問題がある。

今回はまず、そもそも土はなぜ酸性やアルカリ性になるのか?を考えてみたい。

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