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【農の歴史】第6回 日本農業の歴史~、農業は渡来人支配の歴史でもあり、共同体温存の歴史でもある。

日本の稲作の歴史は紀元前900年に遡る。九州の板谷遺跡や菜畑遺跡がその拠点でもある。縄文晩期の最も寒冷化した時期である。ただ、この伝来から拡大までは約1世紀 1000年がかかっておりおそらく寒冷化で食料がなかった時期には拡散していない。紀元前200年に徐福一団が大陸から退去して列島に渡来しており、彼らのその後の伝説が各地にできたことからしてこの時期、縄文の寒冷化が終わり人口が増大に転じた時期、そこを起点にして縄文部落は自らの農業を手掛けるようになっていった。
それは舶来信仰と同時に集落の人員を何とか食い繋げる期待があった。
信仰まで至ったのはそこに登場した稲作技術が待ち望んでいたものであったことの裏返しでもある。しかしこの稲作の登場と稲を神格化する日本人の指向性はその後稲作拡大の原動力となっていった。大きく4つの段階に分けて書いてみた

■第1段階
寒冷期~BC1000年~BC200年
縄文時代の人口削減。縄文中期には26万人いた人口が4万人まで削減した時代。江南地方から渡来 呉越戦争の敗者が日本に漂着。九州で稲作農業始まる。主には渡来人だけの集団での水田農業。土着の縄文人は山に移動し渡来人の農耕をまだ見ている段階。農耕を始めた渡来人と農耕をしない縄文人集落が混在する形。
寒冷期で食料がないから農業を始めたと見る向きもあるが、本当に食べるものがないような時期にリスクの高い農業などを始めるのだろうかというのが疑問。
おそらく寒冷期のこの時期は農業は初めていない。せいぜい渡来人が縄文人を取り込んで自分たちの技術を教えて小規模の水田稲作を始めた段階だったろう。

↓菜畑遺跡の復元 こんな小さな面積で初期の水田稲作が始まった。
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■第2段階
徐福伝説 BC200年
環境は寒冷化が収束し、温暖期に入る。人口も上昇に転じており、4万人の人口は既にこの時代に10万人を超えている可能性。逆に人口が増えて食料を安定して確保する事がいよいよ集団の課題になっていた。
その頃、秦の始皇帝の支援を受けて大陸から老若男女3000人が舟で渡来。その中には土木技術者や農民も多数含まれていた。彼らは不死の薬が手に入ると始皇帝を騙して渡来した故追ってから見つからないように各地に分散して縄文集落に迎え入れられる。
結果、各地に徐福伝説を残す。(調査ポイント)徐福伝説とは何か?おそらく稲の技術への憧憬の伝説ではないか?つまりこの時代に徐福一団と共に稲作は迎え入れられ日本各地に以後農業が拡大していく拠点を作る。

↓各地に残る徐福伝説
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■第3段階
稲作が列島全域に拡大するのに400年かかる。
これを長いと見るか短いと見るかだが、大きく見ると中々広がらなかったと見るべきだろう。その要因は縄文時代にもあったように採集、狩猟、漁労の民の縄文人は自然の恵みを得るという発想を持っており、自然に手を入れて改変する事に躊躇したし、あえて受け入れる頃を拒むという勢力も残っていた。彼らが蝦夷や隼人になって山に入り稲作を拒む勢力として江戸時代にまで残っていく。
ただ、徐福以降も続々と渡来人は列島に入ってきており、200年~500年にかけては神社ネットワークが葛城氏、物部氏を中心に全国に広がっていく。さらに同時期に秦氏が農業技術を伝える技術者として大量渡来し、この時代に日本列島の農業は一気に拡大していく。神社と農業が密接な関係にあることは明らかで、稲穂を初穂として朝廷が管理したり、それを得るために農民は大きな対価を支払ったりして、農業や稲が徐々に神格化され高められていく。

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当時各地で古墳が作られたが、古墳を作るための盛土は農地耕作の残土でもありこの時代に山や丘が農地として開墾されていき、農業は一気に広がっていく。

 

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人口は縄文晩期4万人⇒弥生時代初期60万人⇒奈良時代550万人と1000年で100倍にその原動力は農業だった。

■第4段階
奈良時代以降
藤原氏による支配が完成し、神社ネットワークができあがり同時に様々な農業を拡大する制度が作られていく。荘園制度もその一つで、土地を神社が管理し、小作農に分配するという手法で農業の拡大とそこからの税の搾取が始まっていく。
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伊勢志摩経済新聞よりお借りしました。

まとめ)
つまり、農業の始まりから拡大まで~
稲作を中心とする農業とは渡来人の縄文人支配の為の道具であり、それを受け入れた縄文人もまた舶来思考、受入体質故に、そのやりかたに巻き込まれていった。そこに巧みに神社を使い稲を神格化していったという歴史がある。つまり稲作の歴史とは支配から始まっている。しかし、一方で大衆側(縄文人)は決して搾取という意識では捉えておらず、ありがたい恵みとして稲を迎え入れていく。その後 縄文人集落は農業によって惣村という形で共同体として温存されていき、農業は支配の歴史の裏返しとして日本人の共同体温存の歴史でもある。

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