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農業は脳業である9~近代化を超える技術の創造

近代化農業技術は、百姓の無能化を促進する。

近代化を超える技術は、百姓たち自身の手による創意工夫の中から生み出される。

 

以下、転載(「農業は脳業である」2014著:古野隆雄)

■アジアの共通技術
私は1992年以降、中国、台湾、韓国、インドネシア、ベトナム、マレーシア、カンボジア、タイ、フィリピン、インド、バングラディシュと、アジア各国の農村を旅する機会に恵まれてきた。

アジアの農村で見る光景は、どこもほぼ同じだった。狭い耕地を、裸足の農民が水牛や牛に犂を引かせて耕している。田植えは手植え。草取りは手取り。収穫も手作業。日本と違って、多くの人びとが田んぼで賑やかに働いている。こうした伝統的農業に、化学肥料や農薬が少しずつ使われ始めた。これが急速に市場経済化の影響を受け出したアジアの農村の一般的な姿である。そんなモンスーンアジアの稲作地帯で、合鴨(アヒル)水稲同時作が近年、中国、韓国、ベトナム、フィリピンを中心に静かに広がり出している。

日本や韓国などでは、おもに環境的配慮から、農薬・除草剤や化学肥料という一見便利な近代的技術をわざわざ捨てて、合鴨水稲同時作に取り組んだ。だが、アジアの多くの国々は農業近代化のごく初期段階にある。農薬や化学肥料の値段は、米の値段に比べて高い。農民たちは私がかつてしたように、地面に這いつくばって除草をしている。だから、比較的容易に合鴨(アヒル)水稲同時作が選択できる。経済的に貧しいアジアの発展途上国でこそ、より切実に合鴨(アヒル)水稲同時作は求められているのではないだろうか。

繰り返しになるが、日本の農業(稲作)は、農薬・除草剤や化学肥料や機械という外部資材に全面的に依存した、高投入型の近代化農業だ。世界人口が100億人を突破し、世界的な食糧危機が確実に到来する21世紀に、資源小国の日本はこうした高投入型農業の継続を許されるだろうか。同時に、すべてのアジアの農業が現在の日本農業のように近代化することも、資源・エネルギー・環境問題からみて困難である。近代化農業技術は、先進国のみが行っているから可能なのだ。

では、どうすればいいのか。選択肢は一つしかない。それは、先進国の日本にとってもよく、発展途上国のアジアにとってもよい、「もう一つの農業の近代化」である。合鴨(アヒル)水稲同時作はその答えの一例であり、それはアジアの共通技術なのだ。アジアの共通技術は、21世紀の農業のキーワードである、「近代化を超える技術」でなければならない。

 

■農民参加型の技術
合鴨水稲同時作の技術構造が面白いのは、農民の手で創りあげたからでもある
近代化技術は企業や大学や農業試験場でつくられ、農業改良普及所(現在の農業改良普及センター)や農協や企業をとおして農民に普及され、受け入れられてきた。それは一見便利だが、すべて農民の外部でつくられる、外部資材任せの技術だ。農民が技術の創造に関与できない、受動的で管理されたマニュアル化技術である。

一方、合鴨水稲同時作は、合鴨と稲という農の内部にもともとあるものを創造的に結合して、地域の自然条件・経済条件・社会条件に合わせて農民自身が創りあげていく、農民参加型技術である。

アジアの農民たちも、創意工夫して頑張っている。1997年1月に訪れたベトナム南部のメコンデルタに位置するベンチェ省やドンタップ省の農民は、私が1993年につくった『アイガモ水稲同時作の実際』のビデオを見て、合鴨水稲同時作を始めていた。田んぼに種を直接播き、7日後に合鴨を放したという。彼らは言った。
「古野さんの話はよくわかった。要は田んぼを竹柵で囲んで、昔からいるアヒルを放せば、合鴨水稲同時作になるのだな」
そして、農家が合鴨クラブを結成して、ごく自然に直播きや不耕起と合鴨水稲同時作を結びつけた。彼らは、自分たちのまわりに昔からいるアヒルを使って、近代化技術以上の収量と2倍近い収益を得ていた。

「百姓の技術」という点が、アジアの農民が合鴨(アヒル)水稲同時作に心を奪われている理由である。それは与えられたマニュアルではなく、アジアの多様な条件に応じた、自分たちの創意工夫を活かした技術である。

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