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農業は脳業である6~合鴨ワンダーランドが呼び起こす”既視感”

合鴨水稲同時作の風景が、古来より稲作農耕民族であった私たちに塗り重ねられてきた潜在思念を呼び起こす。

 

以下、転載(「農業は脳業である」2014著:古野隆雄)

■だれもが魅了される風景
田んぼで泳ぐ合鴨君を見る人はだれも、心が和やかになると言う。初夏の早朝、満々と水を湛えた田んぼを合鴨君が並んで泳いでいく光景を見ていると、時が経つのを忘れてしまう。対象であるはずの合鴨君が、いつのまにか私たちの心のなかに入り込むのだろう。
「合鴨はいいけど、父ちゃんが夢中になって、一日何回も田んぼに通って、なかなか帰ってこんとよ」
そんはうれしさ半分の嘆きを聞くこともある。私自身、一日に少なくとも三回は田んぼを見に行くようになった。

これは、稲と合鴨の組み合わせのなかで起きる現象だ。動物園の池や、湖や川で遊んでいる野生の鴨を見たときに感じるのとは違う何かが、そこにある。
「今年も、合鴨を田んぼに入れてくださいまして、ありがとうございます。私は歳をとって足が悪くなり、乳母車を押して毎日散歩をしています。合鴨が育っていくのを見るのが楽しみです。」
ある夏の早朝、私は一人の見知らぬおばあさんに丁重にお礼を言われ、少し驚いた。おそらく、毎日散歩をしている人たちにとって、稲だけをつくっている見慣れた田んぼは、単なる通りすがりの風景にすぎなかっただろう。そこに合鴨君が泳ぐと、散歩の人たちとのあいだに新しい関係性や特別の意味が生じる。
どうやら、合鴨君は人間と田んぼとのあいだに新しい楽しい回路を創り出したようだ。流行の言葉では、それも「農業の多面的機能」と言われる。もちろん、合鴨君はそんな押しつけがましい理屈は言わない。

>子ども、おとな、老人、韓国人、ベトナム人、フィリピン人、中国人、オーストラリア人、キューバ人、フランス人…。老若男女や国籍に関係なく、合鴨が田んぼを泳ぐ風景は人々を魅了する。いったい、なぜだろうか。

 

■合鴨ワンダーランドと既視感
基盤整備の終わった田んぼは整然としている。私の村の周囲では、同じ大きさの田んぼ(たとえば縦100メートル×横30メートル)がどこまでも続く。変化があるとすれば、点在するイチゴやトマトのビニールハウスぐらいだ。
そんなモノカルチャー的な単調で退屈な風景のなかに突如、合鴨ワンダーランドが出現。賑やかに合鴨君が泳いでいる。風向きによっては、鳴き声がけっこう遠くまで伝わる。とくに、梅雨の晴れ間の合鴨君はうれしそうだ。久し振りの太陽の光に向かって羽ばたきをする。その向こうに虹がかかっている。これは、田園風景と不思議に調和する”異質空間”だ。

振り返ってみると、基盤整備前の田園風景は多様性に富んでいた。田んぼの形も、三角、四角、バナナ形といろいろで、高低差もあった。ときには、柿やクチナシが植えられ、秋のお彼岸のころには彼岸花で畦全体が赤くなる。水路の両側には柳が生え、池もたくさんあった。田んぼにも水路や池にも、魚が湧くようにいた。
ひょっとしたら合鴨ワンダーランドは、私たちが農業近代化のなかで失ってしまった多様性の面白さに回帰していく第一歩かもしれない。

作家の白石一郎さんが既視感(デジャブ)について、朝日新聞におおむね以下のように書いておられた。既視感とは、実際には一度も経験していないのに、いつかどこかで経験したかのように感じられる現象をいう。
「アジアを旅する多くの日本人が、懐かしさのあまり茫然と立ち尽くすような光景に出会う。それは人々の行き交う街角や田舎でも起こる。不思議なことに、その光景を実際に体験したことのない若者たちにも、それは起こっている。このいつか見たような懐かしい体験を既視感という。逆に、日本を訪れるアジア人の人たちが既視感をもつことはほとんどないという。これは問題ではあるまいか」
私もベトナムのメコンデルタで、泥だらけになりながら池の水をバケツで汲み出して魚獲りをしている少年たちを見たとき、懐かしさに涙が出そうになった。韓国の田舎町の円形のバスセンターでバスを待っている老婆を見たときも、なぜかどうしようもなく懐かしくなり、我ながらとまどうほどだった。

香港の博物館で、粘土板に描かれた古代の田んぼを見たことがある。その田んぼには、人間と稲と魚と鳥が描かれていた。鳥はアヒルか鴨だ。たぶんアジアの水田地帯では、大昔からアヒルや鴨と共生するように稲作を続けてきたのだろう。アヒルや鴨は、私たちにとって身近な存在だったはずだ。
私たち日本人は、田んぼに泳ぐ合鴨君を見たとき、2000年あまり連綿と稲作を続けてきた稲作農耕民族の無意識のなかに沈潜していた多様な記憶が浮上してくるのである。つまり、合鴨君が田んぼで泳ぐ風景に私たちが心ひかれるのは、その発見の新しさにあるのではない。もともと心の奥底に潜んでいた既視感にあると、私には思えてならない。

■合鴨君の意見
『燦々と輝く陽の光、稲田を渡っていく心地よい風、入道雲が背伸びする大空、快適な雨、虹、美味しい虫たち、健康によい草、稲の葉の日陰。そしてなによりうれしいのは、満々たる水の中を友達と泳ぎまわる自由。ぼくたちは、自然の恵みを満喫しています。

合鴨水稲同時作は、家畜という限界があるにしても、天与の鳥権の復活です。その昔、ぼくたちは沼や湖や川で、野生の鴨として自由に暮らしていました。こうして田んぼを縦横無尽に泳ぎまわっていると、なんだか記憶の水底に眠っていた野生の血が燃えてくるみたいです。

ぼくたちは遠い昔から、「広い田んぼに放してみてください」と人間に訴えてきたのです。日本では長いあいだ、ぼくたちのこの言葉を理解してもらえませんでした。いま、ようやく念願が成就されました。

ぼくたちが田んぼで遊んでいると、言葉をかけてくれる人たちがいます。ありがたいことです。本当は、ぼくたちと人間は交信できます。心と心が通じるのです。なぜなら、ぼくたちも人間も同じ生きものであり、自然の子であるからです。長い長い生命の歴史のなかで、たまたま違った道に分かれていったにすぎません。人間にも、ぼくたちにも、同じ血~連綿と続く命の血~が流れています。その血の記憶があります。だから、人間とぼくたちは交信できるのです。いままでその機会に恵まれなかっただけです。

水田にいるぼくたちに声をかけてください。ぼくたちは、虫を食べたり、草を食べたり、糞をしたり、泥水をかきまわしたり、いろいろなことに才能を発揮します。お任せください。
稲君とぼくたちはすでに交信を始め、稲君はぼくたちにその喜びを伝えています。
「化学肥料を食わんでいいから、うれしいよ。あれは食べもんじゃないよ。味も何もない。苦いだけさ」
「農薬や除草剤という毒をかぶらなくてすむから、よかったよ」
「合鴨君、力を合わせて頑張ろうではありませんか」
人間とぼくたちと稲君がこうして手を結んだ以上、合鴨水稲同時作の流れはもうだれも止めることができない滔々たる大河となるでしょう』

 

これは、1992年1月に行われた第二回全国合鴨フォーラム鹿児島大会での私の発表要旨だ。結局、私たちは合鴨君が田んぼで泳ぐ風景を見て、自分たちもまた天地自然のもとで生かされている存在であるという事実に気づかされ、無意識のうちに心がおちつくのだろう。

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