- 新しい「農」のかたち - http://blog.new-agriculture.com/blog -

農業は脳業である3~田んぼに魚が戻ってくる技術

農業近代化は、子どもたちの眼には「田んぼや池や川から魚が消えていく現象」として映った。

退屈で面白くない空間になってしまった、現代の川、山、田んぼ。

かつて子どもたちが魚獲りに心躍らせたような田んぼを取り戻すために、問われる技術とは。

 

以下、転載(「農業は脳業である」2014著:古野隆雄)

■川も田んぼも面白くなくなった
幼年時代、私は毎日、川や山で遊んだ。私の心はいつも、魚や鳥を獲ることで占領されていた。近年、「環境」が時代の大きな問題となり、その象徴としてメダカや赤トンボが話題になっている。当時、私たちの眼中にメダカや赤トンボなどはない。関心は、もっぱらフナやナマズやウナギなどの「食べられる魚」にあった。

そのころ、「環境」という言葉は現在ほど使用されなかった。現在と違って「環境」は「食」に直結していた。どうやら、日本人は近代化の中で、「魚は食べるために獲る」という当然のことを忘れつつあるようだ。釣った魚を再び川や海に戻すキャッチアンドリリースという考え方ではなく、川や池や田んぼの魚を食べものとしてとらえてこそ、自然環境は守れると私は信じている。川の水を飲み、川の魚を食べていれば、川は汚せない。

だが、農業近代化のもとで、身のまわりにたくさんいた生きものがいなくなり、豊かな風景は単調になっていった。湧くようにいた魚が、まったくいなくなった。幼年時代だから、何が原因なのか明確にはわからない。それでも、除草剤のPCPが初めて使用された日のことは鮮明に覚えている。白い腹を見せて、用水路に魚がいっぱい浮かんでいた。その魚をバケツに満杯に集めているおとながいた。「内臓を食べなければ大丈夫」と広言していたが、結局は食べなかったようだ。

私は、しばらくすれば魚は戻ってくると考えていた。しかし、釣り糸をいくら池や用水路に垂らしても魚は釣れない。仕方なく大川と呼んでいた穂波川へ行ったが、やはり大きなフナやナマズやウナギやコイが白い腹を見せて、浮かんでいた。それ以来、魚の湧く光景は戻ってこない。

その後、農薬の魚毒性は低くなっていったが、基盤整備事業で用水路も排水路も三面コンクリート張りになり、魚の隠れ場や餌がなくなった。そして、排水の効率化のため、田んぼと排水路、排水路と穂波川とのあいだにかなりの高低差がつけられていく。魚にとっては、川と田んぼを結ぶ回路が閉ざされたのである。魚は川と田んぼを自由に往来できなくなってしまった。ふだんはもちろん、大雨で増水したときもである。大雨が降ると樋門(堤防の中に水路が埋設されている。水門より小さい)が閉じられるからだ。
こうして、フナやナマズやドジョウが田んぼで産卵できなくなった。この構造を変えないかぎり、農薬や除草剤の使用を止めても、魚は田んぼに戻ってこない。

私は、単なる懐古趣味でこうした話を書いているわけではない。私たちの先祖は、はるか昔から、川や池や田んぼでの魚獲りに心を躍らせてきたはずである。中国でも、豊かな農村を「魚米の郷」と言う。
農業近代化のもとで、それが断絶した。これは大問題である。私の体験に照らすかぎり、魚獲りは学校や本で得る知識とは異なり、子ども時代の心の深いところに生まれる自然の欲求だ。心と身体の全体を使って自然と向き合う、最初のチャンスなのだ。

1987年ごろ、私は雑草を防除するため、60アールの田んぼにニシキゴイの稚魚を3万匹放流した。幼稚園へ上がる前の長男・隆太郎と次男・泰治郎は毎日毎日、田んぼの水口で網を持って魚を狙った。ある日、泰治郎が網を持って、畦にじっと座っている。妻が心配して尋ねた。
「泰ちゃん、どうしたとね」
「ママ静かにして。魚が戻って来るのを待っちよるとばい」
それから30分、照りつける夏の陽の下で、泰治郎は魚を待ち続けた。そして、ついに戻ってきた魚をつかまえて、ニッコリと笑ったのだ。

私は自分の幼年時代と重ね合わせて、子どもにとっての魚獲りの意味を深く考えさせられた。小さいころ、私は若松市(当時。現在は北九州市)の親類の家によく泊まりに行った。当時、若松は石炭景気に湧いていて、家では食べたことのないご馳走を食べたものだ。しかし、私は3日以上いると家に帰りたくなった。若松では、魚獲りができないからである。魚獲りのような多様な体験の積み重ねのなかで、子どもの個性が創られていくのではないだろうか。

いつのまにか、農薬や除草剤の影響を直接は受けないはずの里山の生きものも、めっきりと少なくなった。夏の初めごろ、雨が降ると必ず山道を這いまわっていたたくさんのサワガニや親子で一列に並んで歩いていたコジュケイは、どこへ行ったのだろうか。
農業近代化で、田んぼにはオタマジャクシと赤トンボしかいなくなり、川や山や田んぼが退屈で面白くない空間になってしまった。そして、川や山や田んぼから子どもたちの姿も消えた。

■有機農業の本質を求めて
すでに述べたように、子ども時代の私の眼には、農業近代化は「田んぼや池や川から魚が消えていく現象」として映った。一般的には、農業近代化の負の側面は、食物汚染や環境破壊として問題化していく。1971年に日本有機農業研究会が結成され、私は77年に完全無農薬有機農業を始め、現在に至っている。

技術的には、日本の有機農業は、私の原風景にある伝統農業と近代化農業の中間に位置しているようにみえる。有機農業はふつう、トラクターや田植機やコンバインなどの便利な近代テクノロジーは使用する。化学肥料や農薬や除草剤などの危険な化学合成物質は、一切使用しない。だから、近代化農業に比べて有機農業は、土づくり、雑草防除、害虫防除に細やかな対応が必要である。つまり手間がかかる。
これは、かぎりない省力化を続けてきた近代化の流れと明らかに逆行している。ここに、環境によく、安全で、美味しい農産物ができると評価されながらも、有機農業が広がらなかった大きな原因がある。

「環境の世紀」と言われる21世紀にも、有機農業は手間がかかるという常識的イメージは変わっていない。有機農産物の認証制度も、こうしたイメージに支えられているのではないか。つまり、生産者が手間暇をかけ、苦労して生産した有機農産物は、環境保全に寄与しているのだから、消費者は当然高く買うべきであり、国や都道府県は支援(直接所得支払い=デ・カップリング)すべきだという論理である。

だが、このイメージは、はたして正しいのだろうか?近年、有機農業も環境保全型農業もブームとなっている。けれども、農薬や除草剤を天然資材に置き代え、化学肥料を有機資材に置き代えるだけでは、外部資材に依存するという基本構造において近代化農業の発想と変わらない。
あまり過重労働にならず、だれにでもできて、循環的・永続的で、環境によく、魚が戻ってくるような有機農業の技術はないのだろうか。これが、この本を貫くテーマである。

[1] [2] [3]