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農と全人教育3~田植え体験の意味

土づくり、田植え、稲刈り。。。これらの体験を通じて、子どもたちが体感する豊かな世界。

それを一過性の「体験」とせず彼らのこれからの「土台」としていく。

そのために農業従事者、周りの大人たちは、どんな言葉を投げ掛けていくか。

 

以下、転載(農本主義が再発見されたワケ 著:宇根 豊)

■田植え体験の意味
ほとんどの田植え体験がそうであるように、私も子どもたちに田植えをさせるときは、全部手植えです。実際に私は今でも田植え機を使わずに手植えをしています。手植えという前近代的な、時代遅れのやり方だからよいのです。人によっては、「昔はこうだったんだよ」という教え方をする人もいますが、私は「近代化の歴史を教える」のではなく、豊かな世界を体験するという、農業のいちばん本質的な部分に触れるからいいと考えています。

うちに田植えにやってきた子どもたちの一人が、「なんで田んぼの土はぬるぬるするの」と言います。「そんなこと、当たり前だろう」と思いましたが、「うんたしかに、そんなことを百姓は考えることがないな」と、ハッと気づいたのです。そこで「それはね、稲の藁や草が腐って土にくっついたんだ。堆肥も入れるだろう。するとそれも土になるんだ。ぬるぬるしている土がいい土なんだ」と、答えてほっとしました。
またある子どもは、「田んぼの土の上はあったかいけど、ずぶずぶって入って下のほうはひんやりするね」と言います。おお、「なるほど、すごい、いいところに気づいたね」と誉めるのです。「だからね、真夏の暑いときでも稲の根は元気に伸びることができるんだ」とはじめて言葉にしたわけです。
田んぼの土はぬるぬるしているんだ。上はあったかいけど、下はひんやりしているんだ。そういう世界で稲は育っていくんだ。あっ、もう源五郎が泳いでいる。もうとんぼが飛んできている。何ともいえない涼しい風が吹く。そういうことを、みんなが体で感じるわけです。こういう世界を子どもたちは、理屈抜きに感じているわけです。

ところが、体験をさせている側の百姓が、それをどれだけ思想化しているか、理論化しているかということは問われるべきだと思います。下手すると、「今日は昔ながらの農業を体験しました。でも、現実はもう機械で植えているんだ、これはあくまで昔のやり方なんだよ」とは、言わなくていいことまで言ってる百姓もいます。たとえ、手植えが前近代のやり方だとしても、体験させる価値はぜんぜん減っていないどころか、相対的に増しているわけです。かえって近代化された田植え機やコンバインの操縦は、子どもたちが体験する必要はとくにないと思います。
素足で田んぼに入れば、田んぼとは何なのか、稲とはどういった世界で育っていくのか、百姓とはどういった世界で仕事をしているのか、理屈ではなく体でいっぺんにわかります。なぜいっぺんにわかるのかというと、それは、天地自然の中に身体ごと入ってしまうからです。自分の手で苗をつかむから、苗の生の肌触りもわかる。田んぼの土の感触も、水の冷たさも、土の温かさもわかるわけです。そして、それが4ヶ月後の稲刈りのときに「あっ、こんなに実っている」という、そういう稲という生きものの生命力もわかる。いろいろなものを学んでいくわけです。田植え体験というのは、それだけすごいことをやっているのに、すごいことをやっているという自覚が百姓には希薄な気がします。

近代化されつくした現代において、こういったある意味では前近代的な世界に、たっぷり子どもたちがひたることによって、実はこういう前近代的なものが、今の社会においても土台として続いていて、ひょっとすると、こういう世界のほうが大事なんだということが、これから先どこかでわかるかもしれない。実際には田植え機で植えているとしても、土台にはこういう世界があるんだというのを、百姓は伝えることができる。これは農業にとって、とてもありがたいことではないでしょうか。

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