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ブータン農業の父は、日本人~「ダショー・ニシオカ」、国境を越えた絆

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ブータンの農業発展に人生を捧げ、国民のみならず国王の信頼も厚かった「ブータン農業の父・西岡京治」。

前回に引き続き、彼がブータンの地に残した功績を、ご紹介していきます。

以下、「国王からも爵位。日本人「ニシオカ」はなぜブータンで国葬されたのか?」 [2]より引用

 

■「ニシオカに農場の運営をまかせようではないか」

1966(昭和41)年3月、海外技術協力団からの2年間の派遣期間が過ぎようとしていた頃、ブータン開発庁の担当官がやってきた。西岡の任期を延長して貰うよう日本の事業団に申し入れたい、と言う。

「本当ですか。願ってもないことです。ぜひお願いします」と、顔をほころばせた西岡に、担当官はさらに重大な話を持ちかけた。

国王が、『パロにしかるべき試験農場用の土地を探し、ニシオカに農場の運営をまかせようではないか』と、おっしゃっておられるのです。いかがでしょうか?」

「えっ、国王がですか…」

ブータンに来てから、この日ほど嬉しかったことはなかった。

パロの長老たちも土地探しを手伝ってくれて、7.6ヘクタールの理想的な土地を見つけた。斜面の上段には、カキやモモ、ナシやリンゴの試験果樹園、中段を野菜畑、下段を水田とした。道をつけ、石垣を積み、水路を引くのは、すべて手作業で自分たちで行った。こうしてブータンで最初の本格的な試験農場が開かれ、「パロ農場」と名づけられた。

西岡は夜は宿舎代わりの仮設テントで、実習生たちと夢を語り合った。妻にも、こんな風に語っている。

「ぼくはここを、試験栽培の農場だけではなく、将来は総合農業センターにしていきたい。地方からの実習生の受け入れ、農機具の貸し出し、苗や種の生産のほか、栽培した野菜や果物を販売したり、ジュースやジャムに加工できるようにもしていきたいんだ」。

 

■「種をいただけまいか。庭の畑で育ててみたい」

農場ができると、西岡は近隣の村の長(おさ)たちにも、見学に来るように勧めた。畑には、ダイコンが青あおと葉を広げ、エンドウ豆がかれんな花をつけ、カリフラワーもキャベツも大きくなっている。「いやあ、たいした畑だ…。わしらにも、こうした野菜が造れるようになるんだろうか?」

彼らは種を持ち帰り、西岡や実習生が栽培の技術を指導した。立派な野菜が作れるようになると、西岡はパロ農場や近隣でとれた野菜をトラックに積み込んで、45キロ離れた首都ティンプーに売りに行った。

中央広場に野菜を並べると、トラック1台分の野菜が3時間ほどで売り切れてしまった。首都でも野菜が売れると分かれば、他の村の人々も、野菜作りに関心を示してくれる。またパロ農場の売上は、試験農場の運営に役立てられる。やがてはインドに野菜を輸出したいと、西岡の夢は広がっていった。

パロ農場の活動が2年目に入った1967(昭和42)年4月。国王から直接会って話をしたいので、ティンプーのタシチョ城に来て欲しい」と招待された。

西岡はパロ農場の様子を写真で国王に紹介した。国王は立派なダイコンに特に興味を示し、「種をいただけまいか庭の畑で育ててみたい」と西岡に頼んだ。国王自ら畑を耕すのは、我が皇室と同様である。

西岡は国王に農場の優秀な実習生の日本留学を提案し国王は快諾した。さらにパロ農場に開発庁の予算をつけてくれた

 

■「この開発プロジェクトは、ニシオカとそのスタッフに推進して貰いたい」

それから5年後の1972(昭和47)年、国王が急病で亡くなった。西岡は肩を落としたが、まだ16歳のジグミ・シンゲ・ウォンチュック皇太子が第4代国王に即位した。新国王も前国王と同様、農業開発に積極的だった。

その秋、西岡はティンプーに呼ばれた。国王が自ら立案した中央ブータン南部のシェムガン県の総合開発計画が提示された。同県は険しい山と谷が亜熱帯性のジャングルに覆われ、住民の多くは焼き畑農業に頼って、暮らしは困難を極めていた。

国王は、同地の人々が焼き畑農業から脱して、定住して米作をすることで、暮らしの安定と向上を図りたいと説明し、西岡を見つめて言った。

「この開発プロジェクトは、パロ農場のニシオカと、そのスタッフに推進して貰いたいが、いかがだろうか?」

西岡は「ご期待にこたえられるよう、全力を尽くします」と応えた。

シェムガン県は、パロから東へ約130キロ行き、そこから南に50キロ下る。しかし、この50キロは車がまったく通れない。西岡らは、テントや食料や道具を担いだり、馬の背に乗せて、狭く険しい道を延々と歩いて、同県に到着した。

しかし、村人たちは「県の役人さえもめったに来ることのない、こんな所に、国がお金を注ぎ込んで水田を開こうなんて、信じられん」「米がとれるようになったら、国が土地をとりあげるつもりではないか」と疑った。

西岡は村人たちとのべ800回も話し合いをし、興味を持った人々を募っては、パロ農場の見学にも行かせた。地道な活動を続けていくうち、62家族が山を下りて、水田作りや道路造りを手伝ってくれるようになった。

また25人の少年たちをパロ農場に送り込んで1年間研修をさせた。帰ってきた彼らは「おれたちのシェムガンを、農業のすすんだパロのようにするんだ」と意気込んで、西岡たちと一緒に汗を流した。

肝心の農業用水は竹などを利用して、水を引いた。たくさんの吊り橋は、籐だと数年毎に架け替えなければならないので、ワイヤーロープを取り寄せ、地元の人たちで掛け替えた。こうした身の丈にあったやり方で生活環境を整えるのが西岡のやり方だった。

 

■ダショー・ニシオカ

国王は開発の様子を二度にわたって視察し、作業に励むスタッフや村人たちを励まし、学校の庭で宴会を催してねぎらった。

5年の歳月をかけたシェムガンの総合開発は、1980(昭和55)年に一段落した。こうしてパンバン村を中心に開かれた水田は60ヘクタール、畑は16ヘクタールに達した。毎年3万トンの米がとれ、野菜や果物も収穫できるようになった。

村の代表たちが西岡に礼を言いにやってきた。

「3万人もこえるみんなが、たんぼや畑のある土地におちついて住むことができて、まるで夢のようです。学校もできてありがたいことです。」

「村はすっかり生まれ変わりました。ニシオカさんが、はじめに言ってくれていたとおりになった…。」

老人たちはそう言って涙を浮かべ、西岡の手を固く握りしめた。

同年9月、西岡は国王からダショーの称号を授けられた。「最高の人」という意味で、ブータンでもっとも名誉ある称号である。「ニシオカの16年にわたるブータン農業への功労に感謝して、ここにダショーの称号を授与す」と言って、国王は、肩からかけるえんじの布と銀の鞘の剣を授けた。

 

■両国民を結びつけるもの

1992(平成4)年3月21日、西岡は敗血症にかかり逝去した享年59。パロ農場は教え子たちで十分やっていけるようになっていたので、そろそろ日本に戻って、別の形でブータンのためになる事を考えたい、と思っていた矢先だった。

2011(平成23)年、第5代ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王が国賓として来日し、国会で演説した。その中に次のような一部があった。

ご列席の皆様、我々ブータンに暮らす者は常に日本国民を親愛なる兄弟・姉妹であると考えてまいりました。両国民を結びつけるものは家族、誠実さ。そして名誉を守り個人の希望よりも地域社会や国家の望みを優先し、また自己よりも公益を高く位置づける強い気持ちなどであります。

国王にそう言わせたのは、自らの祖父と父と2代に渡ってブータンに尽くした西岡の一生が脳裏にあったのかも知れない。

(引用終わり)

 

 

 

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