- 新しい「農」のかたち - http://blog.new-agriculture.com/blog -

『農業全書に学ぶ』シリーズ2「自然の力を『看る』~陰と陽~」

[1]
春日井市 [2] のHPよりお借りしました。
前回( 「農業全書に学ぶシリーズ<1>『農業全書』の基盤にある自然観や思想とは? [3]」)は、“自然”を別個に対象化・言葉化せず、すべてを大局的にとらえ、その中に身を置く自分も一体として当時は捉えていたのではないか?と考えました。
そこで日本人の持つ自然観に馴染む「陰」と「陽」で体系化した「農業全書」を具体的に見て行きたいと思います。


[4]
こんなまち 初沢町 [5] よりお借りしました。
●江戸時代における農業の3つの問題
江戸時代の農業には、まず3つの問題を孕んでいました。
当時、家康が重農主義者で、国の基本を農業とし、各地の大名達は、経済の基盤をつくるために地方(藩)の土地支配を固め、農民に米を年貢として納めさせていました。そこで各地の大名は、米を確保するため、戦国時代に発達した築城の土木技術を応用し、これまで水源に恵まれなかった台地にも用水が引かれ、各地に新田集落が作られました。
その結果出来上がったこの集落は、区画が短冊状に整然と並び、一区画に住居・畑地・平地林が備えられ、農家が自給自足できるよう計画的に整備されていたものの、2つの問題が孕んでいました。
①集落が分散した結果、当時口伝で広まっていた農業技術が伝承出来ないor活かされない。
② 平野部は、山間部に比べ土地が肥えていないので、収量が上がらない。
( 参照:「久谷の里山 [6]」 )
これら2つの問題に加え、更に当時の社会状況により、もう一つの問題も同時に生じていました。
江戸時代は、人口の増加によって都市化が進み、全国の交易も栄えました。
その結果、各地の特産品が江戸に向けて流通されるようになりました。
そして、農民達の中には、売れる特産品を中心に作る兼業農家達が増えてきた為に、
③ 水稲を始めとした農業技術を向上させる意欲が上がらない。
という問題が生じました。
当時の農民の中には、商業を中心に考え、年貢を納めない農民さえも出て来る始末でした。
その為、これら3つの問題に対する答えを出す事が江戸時代の農業には求められていたのです。
●この3つの問題に答える「農業全書」
そこで、安貞は、根本問題を解決すべく、これまで誰もしてこなかった各地の農業技術を集約し、その内容を農民達に習得させ、皆が安定した収量を確保する事で生活が安定し、国が安泰する。
こうした想いを塗り重ね「農業全書」が作り上げられました。
この農業全書は、貝原益軒から紹介を受けた中国の「農業政書」や安貞自ら全国を見聞し、培った農業技術も合わせてまとめ上げられています。
では、農業全書が、如何に当時の農民達にも分かるように練り上げられたものなのか見て行きたいと思います。
●農業を『陰と陽』で示した画期的な中身とは・・・
平安初期に斉民要術の伝来が確認されているように、日本においても中国農書の影響はかなり大きかったそうです。
しかし、江戸時代迄農書の影響は全国に広まる事が無く、日本の農業技術は、各地域の老農達による口伝や、略暦(※1)等に書かれている暦註や二十四節気を見ながら、日々の農作業の段取りを考えてきました。
[7]
旧暦・和のこよみ [8]」よりお借りしました。
( ※1 略暦・・・江戸時代はっきり「農事暦」と謳った農民向けの暦は存在しませんでした。 参照「旧暦・和のこよみ [9]」 )
しかし、新田開発によって耕作地域が広がった事で、口伝による技術の伝播が難くなってしまった点。及び、これまで豊かな土壌の山地で行ってきた農法が、平地の新田で通用しなくなった点。
更には、暦を通してやる作業は分かっていても、自然相手では全てが予定通り上手く行かない点が生じていました。

そこで、「食べることは庶民の最高の願望であり、したがって食糧を生産する農業は政治の基本である。」と考えていた安貞は、農業全書を完成させる事で、路頭に迷う農民達に分かり易く、且つ学ぶ事で自らも壁にぶつかった時に考えられるようにさせたいと考えました。
その為、中国「農業政書」や農民達に見聞した内容を普遍化し、これまで考えられなかった問題点を構造的に理解させる事に取り組みました。
そこで、日本人の自然観にも馴染み、且つ農民達にも分かり易く伝えられるにはどうする?と考え、「陰」と「陽」を使ったのではないかと思われます。
実際、農業全書「叙」から「第8章(穫収)」迄にどのような記載がされているのかを下図で表してみました。
%E8%BE%B2%E5%9B%B3.jpg [10]
上記の表の中から、具体的に2点取り上げて見てみたいと思います。
例えば、農業全書の中に

『春耕にあたって、凍った土がまだとけず、また春の陽気が土中に通じていないときは、決して耕してはいけない。もし耕せば、寒という陰気を土中にとじこめることになるからである。そのため朝も太陽が昇った暖かくなるのを待ってから耕さなければいけない。』

との一文があります。
安貞は、「陰」と「陽」で表した理由付けも農民達に分かるようにしっかり後述しています。

『まだ春の陽気が土に通じない時期に、雨も降らないうちに無理に耕すと、土塊が砕けず、草も腐熟しないので、作物を植えた後、苗と草が同じところから発生してきて、中耕除草が困難になり、肥料も効果がなく、土は瘠せ、荒れてしまうものである。春の和らいだ空気が土に通じて暖かくなったころ、一雨降ってから耕し、草が青く生えてからまた耕す。このようにして土塊が少しもないように細かくした土地では、土が和らぎうるおって草も腐熟し、瘠せ地も良田となるものである。』


ちなみに、現代の耕作で書かれている内容を見てみると、

%E7%84%A1%E9%A1%8C.jpg [11]
( 参照:「くぼたのたんぼ [12]」)

つまり、土は耕作する事によって、土の中に草を鋤きこみ、土の養分を高める事で稲の育ちを良くします。
しかし、寒過ぎると土が固まって十分な耕作が出来ず、草を鋤きこんでも草が腐熟し難くなるので、稲の育ちが悪くなるという事を伝えているんですね。農業全書では、この原理を見事に「陰」と「陽」で現していたのです。
また、農業全書の肥料編を見てみると、

『作物に肥料を施しても、その時期に降雨がないと、亢陽(=日照り)といってただ陽気だけが強くなり、土地が乾きすぎて作物の生育する時期を失し、せっかくの手入れも無駄になるものである。それを防ぐためには、水肥を多く貯蔵して時期を見計らって使用し、陰気の肥料とすることである。水肥と焼肥の2種は、もっぱら陰陽を調節する為に使用するものであることを承知しておかなければならない。作物は、陰気によって、すなわち土が湿ることによって育てられ、また作物が実るのは、陽気の力によるものである。』

この点についても安貞は、「陰」と「陽」で表した理由付けを農民達に分かるようにしっかり後述しています。

『水肥の類をひよわな野菜にかけるときは、細雨の降る中で行うとよい。けれども普通は、雨中で水肥をかけると肥料分が流れて効果がないので晴天のときがよいのである。
水肥を水田に使う場合は、土を乾燥砕土して、晴天のときに充分施して乾燥させることである。こうしたほうが、湿っているときに濃い下肥をかけるのに比べ、ずっと効果がある。』
『肥料を用い、手入れをよくして栽培すれば、苗はよく生育して収量も多くなるものである。土の性質には良否いろいろの変化はあるが、手段をつくしてその土地によく適合した肥料を用いれば、必ず効果が出てくるのである。』


等などが挙げられています。
ちなみに、現代の耕作で書かれている内容を見ても、

農林水産省が管轄する肥料取締法では以下のように定められています。
「植物の栄養に供すること又は植物の栽培に資するため土壌に化学的変化をもたらすことを目的として土地にほどこされる物、および植物の栄養に供することを目的として植物にほどこされる物」
農業は、土から栄養を吸って育った植物を持ち去るため、減少した栄養を土に補給しなければ、継続して収穫を得ることはできません。
肥料は主に土へ栄養を補給する目的で用いられます。
(参照 「JA全農にいがた [13]」)


このように、現代でも通じる農法を江戸時代に安貞は農書に書きとめ、広めようとしていた事が分かっていただけたと思います。
●農業全書が示した3つの答え
また、そもそも江戸時代の農民達が抱えていた3つの問題に対しても、農業の方法に熟知していない農民達に理解してもらうように「陰」と「陽」を使い、
①これまでの口伝・技術が使えない。⇒現実直視=問題を掴む力を身につけさせる。
②肥えない土地で収量が上がらない。⇒どうする?答えを出す力を身につけさせる。
③技術向上の意欲が湧かない⇒兼業でも維持出来る余力を作る⇒段取り能力を上げさせる。
3つの軸で説き、農民達が自ら自然(事実)を『看る』力を養わせ、答えを出せるようにしていました。
つまり、農民達が、ただ教えられるだけでなく、「農業全書」を通じて自ら学び、自考する力を身につけさせる。その結果、農民達が安定した生活を送れるように考え抜かれた書物だったのです。
いかがでしたか?
安貞自身が、本気で彼らが置かれている状況を変えたいと想い、日本人の持つ自然観に馴染む「陰陽論」を使った農業全書が作られたのではないか。
実際、この農業全書の発行以降は、各藩が画期的な指南書として重宝し、こぞって農書を作成しています。この流れから見ても、安貞の想いが「陰」と「陽」の捉え方を通してしっかり伝わった事が伺えます。
そして、何よりも凄いのは、発行以来300年以上たった現代においても、共認域が広がっているという事です。
それだけ、私達に自然(現実)を『看る』事で見えてくる道理を普遍的に捉え、自ら答えを出す事がどれだけ重要かを教えてくれる書物なのではないかと思います。
では、また次回の『農業全書に学ぶ』シリーズをお楽しみに~ 😀

[14] [15] [16]