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シリーズ 茶のチカラ 1 茶の歴史(共認形成の場、そこに、いつもお茶があった)

みなさん、こんにちは。今回から新しいシリーズ 茶のチカラが始まります!!
最近、お茶と言えば、ペットボトルのお茶を傍において、仕事や勉強に励まれている方も多く、誰でも毎日口にする身近な飲み物の一部となっているのではないでしょうか。
 しかし、一方で、日本全国の茶農家は、経営が成り立ちにくくなり、有名茶産地でも茶畑の荒廃が進んでいます。類農園三重農場でもお茶を栽培しており、農場の位置する度会町は、わたらい茶として有名で、無農薬茶栽培では、全国でも先駆けの地でもあります。ところが、当地でも、最近のお茶の生産の衰退には、目を覆うばかりです。
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荒廃して雑草に覆われた茶畑           ペットボトル飲料
 しかし、そんな現状を嘆いてばかりもいられません!!
市場経済が崩壊の危機を迎え、社会構造も大きな転換を迫られている現在。農や食、文化のあり方もその転換を迫られています。
 そこで、本シリーズでは、あらためて、日本人に馴染みの深いお茶を採り上げ、
市場社会の次の時代に於ける、お茶や食、それらを通した人のつながりの可能性を追求して行きます。
 シリーズ最後までお付き合いお願いします。
いつものぽちっとよろしく!!


それでは、早速、シリーズ1回目 茶の歴史です。
 みなさん、お茶の歴史と言うと茶の湯に代表される文化的側面をすぐに思い出されるのではないかと思います。一方で、近代400年には、市場経済に翻弄され続けたお茶の歴史とその中で逞しく生きた日本人の営みがあります。今回は、茶の湯も含めて、社会的視点からお茶の歴史を振り返って、次代を切り拓くためのヒントを見つけ出したいと思います。

①黎明期:発祥~日本への渡来、薬用としての茶(5000年前~西暦1100年)

 人間が茶を飲み始めた歴史は、5000年以上昔の中国とされています。中国の帝王、炎帝とよばれる『神農帝』の伝説の中で語られています。
詳しくは、当ブログの記事
食と日本人の知恵シリーズvol.6~お茶の伝来と変遷
http://blog.new-agriculture.com/blog/2013/05/001421.html [3]
を参照ください。
 伝説の類ですので、真偽のほどは、定かではありませんが、少なくとも、5000年前頃の中国で、お茶は、薬(生薬)として認識され、利用されていたことは、間違いないようです。
つまり、人間とお茶の関わりは、薬としてその歴史が始まっています。
 その後、時代が下がって、日本へは、遣唐使で当時の大陸と行き来していた平安時代に、最澄、空海が持ち帰り、限られた貴族階級でのみ、薬膳や、社交の道具として楽しまれていました。栽培も限定的で、世の中に広く普及するまでには至りませんでした。この時代は、未だ、茶の社会的位置づけは小さい黎明期です。この時代は、団茶と呼ばれる団子状に蒸してつき固めたものでした。

②鎌倉~室町時代・戦国時代:薬用から支配階級、商人の共認形成ツールとしての茶の湯文化へ(西暦1100年~1600年)

 茶の本格的な栽培・利用は、1191年(鎌倉時代)に宋から栄西禅師が、臨済宗(禅宗の一宗派)とともに、茶の種子、抹茶のルーツとなる製茶方法やお茶のたて方を持ち帰り、人々に伝授し 「喫茶養生記」を記し、九州の背振山地に茶を植えたことに始まります。茶の覚醒作用(カフェイン)が、禅の修行時にも利用されていました。
 つまり、思想(宗教)とともに、本格的に持ち込まれました。この時代のお茶は、抹茶でした。禅の思想、より味わいのある抹茶の製法とともに持ち帰られたことが、その後の日本での広がりを生み出します。
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千利休      利休の茶室
 これ以後、武家社会で取り立てられ広がり、室町中期から戦国時代にかけて、村田珠光(1422~1502)、武野紹鴎、千利休(1522~1591)らが、茶の湯の世界を確立して行きます。茶の湯というと日本人のもてなしの心の原点のように捉えられていますが、茶の湯、茶室、茶会は、支配階級と商人階級、あるいは、彼ら同志の、意思疎通、権力誇示の場、商談の場として使われました。特に信長、秀吉は、積極的に、茶会を催し、茶器の収集にも力を入れました。秀吉の北野大茶会は、その代表で、天下統一を世に知らしめるものでした。
 さらに、千利休は、両武将に取り立てられ、侘び寂びの世界を大成することになりますが、一方では、堺商人出身の彼は、一説には、武器商人とも言われており、茶の湯を使って、権力者に近づいて、商人の利権を拡大することになります。この時代の堺商人達は、鉄砲を商い、戦国武将たちに供給し、世の中を動かしていた勢力とも言えます。信長の桶狭間の勝利も堺商人の力があってこそです。また、茶室は、商人達の商談の場としても盛んに使われていました。
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     秀吉
 つまり、この時代のお茶は、社会を動かす支配階級の序列共認、商人階級の密談、商談=取引共認、を形成する場(=私権の共認形成の場)を演出するツールでした。
この時代には、堺にも、キリスト教の布教に、宣教師達が多く訪れていますが、茶の湯の重要性を認識し、日本で教会を建設するときには、茶室を設けることもイエズス会へ報告しています。それだけ、世の中を動かすのに重要な場であったということが伺い知れます。
http://www.h4.dion.ne.jp/~js.maeda/chayutochristian.html [7]

③江戸期:庶民への普及、市場の商品としての茶の拡大(1600年~1850年)

 徳川時代となり、 徐々に、庶民へ普及しつつあった飲料としての茶が、幕府の鎖国安定体制の中で一気に拡大し、江戸中期の永谷宋円による煎茶製法の確立で、さらに進みます。既に、江戸初期には長崎の平戸からオランダへ、お茶の輸出も始まっており、お茶が、飲料という商品として拡大して行く時代です。
 江戸庶民の間でも、お茶を楽しむ習慣が普及し、茶屋ができ、看板娘達が話題になりました。
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  江戸の茶屋娘
 そして、問屋制度等の流通制度の整備、産地間競争など、現在の茶流通市場につながる仕組みが出来始めた時期です。
 しかし、市場流通の基礎ができると、茶農家は、むしろ安く買いたたかれ、年貢を茶で納めていた茶農家は、苦しい状況に追い込まれました。天保の大飢饉を切っ掛けに、駿遠両州(現在の静岡)の山間地の茶農家では、高級手もみ煎茶に活路を見出し、それが、明治初期の主要輸出品としての日本の煎茶の基礎になります。
 しかも、この時期、藤枝北部の山間の地区では、茶産地とし蓄えた財力で、幕末において国際情報にも明るい一級知識人を教師として迎え、私塾を開き、若者の教育に力を入れていたというから驚きです!!現在は、インターネットの普及した時代で、田舎に居て農業をしていても、国際情勢も、最新情報も簡単に手に入りますが、江戸時代の山間地の茶農家達がこのような取り組みを既にしていたことには正直驚き、自分達の村は自分達で良くして行くという気概と逞しい姿が、思い浮かびます。
 そして、こうした茶市場の確立という大きな動きの中でも、、お茶は、茶屋に代表されるように、人と人を繋ぐ場で提供されるものでした。
静岡茶物語3
http://www.greentea-tourism.com/shizuoka-cha-monogatari-1/shizuoka-cha-monogatari-2/shizuoka-cha-monogatari-3 [9]

④明治期:グローバル市場への挑戦と敗退(1850年~1940年)

 西欧列強の圧力で開国させられた日本は、否応なく、グローバル市場の一端に組み込まれることになりました。その流れの中で、 明治政府が明治10年代に貿易品として有望な日本茶生産振興を行い、明治20年代に入ると輸出の振興、明治30年代には外国商館を経由しない直輸出振興策をたてます。
 その主産地となったのが静岡で、明治初期には、明治維新によって役割を失った旧士族達の言わば再就職の場として、茶畑の開墾が行われました。現在も主要産地の一つである静岡県の牧の原台地の数百ヘクタールの茶畑も彼らによって開墾され、その挫折後も、地元茶農家が引き継ぎ、産地を確立して行きます。
 小学校唱歌「茶摘み」に歌われた「茜だすきにスゲの笠♪」は、この旧士族の娘さんたちの作業着だったそうで、グループごとに、タスキや手甲の色を変えて揃えるなど、楽しんでいたようです。
 そして、日本が近代国家として立ち上がって行くこの時期に、茶は、生糸とともに主要輸出品となり、日本経済を支えました。
 「日本茶輸出百年史」32頁によると
開国時
総輸出額に占める、茶の輸出額の割合は、
1860年  7.8%
1861年 16.7%
1867年 22.4%
と急速に伸びており、まさに、お茶は、この時代の主要輸出品でした。今で言えば、自動車でしょうか。      
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現在の茶摘み体験           清水港からの茶の輸出船
 この時期の最大の輸出品である生糸の生産は、「女工哀史」に代表されるように、虐げられる下層階級の労働者の酷使と悲惨な状況に支えられていましたが、お茶も同様でした。
 茶は、横浜や神戸の外国人居留地(治外法権)内の外国商館経由で輸出されたものが大半でしたが、居留地内にあって、全国から集められた茶葉が二次加工される茶場でも、同様の女工さん達の過酷な労働がありました。
 一方で、日本に利益が得られるようにと直輸出も行われました。そこでは、茶農家達自らが、茶業組合、金融機関を設立し、国に働きかけて、清水港の国際港化まで実現して、グローバル市場へ打って出ました。
 この時期は、輸出の是非はともかく、日本の近代化のために、支配階級、旧士族、庶民一体となって、その共同体性、共認力を使って邁進して行った時代です。
 しかし、当初は、主としてアメリカ市場で、好調な販売を続けた日本茶も、イギリスの紅茶に敗れて行きます。
「世界ニ於ケル茶業の状況」大正2年、87頁によると
アメリカ合衆国への輸入紅茶及び緑茶は
        紅茶        緑茶
1907年 2200万ポンド  4400万ポンド
1912年 5600万ポンド  4300万ポンド
と逆転しています。その後、緑茶(主として日本茶)の輸入は、急速に衰退して行きます。
敗因は、
・国際的な情報収集能力の欠如
・植民地インドでの低コスト大量生産と機能性(体に良いetc.)を売りにした紅茶に対して、手揉みの高級路線(遅れて機械化されますが)+日本茶文化を売るという路線で、日本茶は敗れた。
・混ぜ物をした不正茶の流通で信用を落とした。
などです。
 その後、他地域(中東、ロシアetc.)での販売に活路を見出そうとしますが、芳しい成果はなく、本格的な輸出から撤退せざるを得なくなります。
 先行してグローバル市場を形成して来た西欧列強に後発の日本が敗れた形です。やはり、他人の作った土俵の上で勝負していては、勝てないのです。
静岡茶物語4
http://www.greentea-tourism.com/shizuoka-cha-monogatari-1/shizuoka-cha-monogatari-2/shizuoka-cha-monogatari-4-mi—kiki-dokoro [12]
参考書籍:「茶の世界史」緑茶の文化と紅茶の社会 角山 栄 著 中公新書

⑤戦後:内需拡大期(1945年~1980年)

 しかし、日本人は、グローバル市場から撤退したここで、茶生産を衰退させることなく、内需拡大に方向を転換させます。戦後の高度経済成長の波にも乗り、茶の消費量、生産量は右肩上がりに増加し、茶の生産の機械化も進み、茶農家も大規模化して、茶専業生産で、ある程度儲かる時代でした。
 また、経済成長を支えた家庭の消費・団らんの場が「茶の間」であったことも象徴的です。企業や家庭での接客の場でも、お茶は、欠かすことのできないものになっています。
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昭和の茶の間の再現
 この時代、お茶は、市場の商品であり、かつ、団らん、接客の場(親和)の場を演出するものでもありました。ここで、グローバル市場から撤退し、内需型に切り替えて茶の生産、文化を維持することに成功したことは、次代を考える上でも参考になります。
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データは
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/0470.htmlからお借りしました。

⑥現在:停滞期、茶飲料の登場、国内生産減少、輸入増加(1980~現在)

 1980年代後半の茶飲料の登場によって、茶の生産者に、大きな転機が訪れます。
 それまで、家庭や個人でお茶を飲むのは、急須で茶を淹れて飲むことを意味していました。ところが、手軽な茶飲料の登場によって、茶葉に換算した消費量は、大きくは変化していないものの、茶葉の価格が下落し、生産農家は、徐々に追い込まれ、廃業する者が続出しています。
 流通業者や飲料メーカーは、儲かるものの、生産者は儲からないということで、生産は停滞し、近年、安価な輸入ものも増加の一途を辿っています。しかし、茶飲料の消費も頭打ちとなり、先が見えない状況になりつつあります。茶を飲む時間をみんなで楽しむという文化も衰退しています。
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 みんなが物質的には豊かになり、西洋発の個人主義も取り入れ、家族という社会を構成する最小単位も、実質的にはバラバラになって、それに代わる充足の場が無いという状況も少なからず影響しているものと思われます。
 今や、家庭でもペットボトル茶が出され、職場でも急須でお茶を淹れるのではなく、各自が机にペットボトル茶を置いて仕事をする時代です。
 誰もが、バラバラの個人として市場の消費者にされてしまうと、茶は、飲料という商品としてしか扱われなくなり、本来の共認形成のツールとしての期待が無くなってしまい、低品質低価格路線に走り、結果として、国内の茶の生産も衰退に向かうことになります。
 しかし、一方、カフェや外資系のコーヒーハウスが増加していることから見ても、人つながりや何らかの交流の場、そこでの嗜好品への欠乏が高まっていることも間違いありません。お茶の活路もその路線上にありそうです。
以上、社会的な視点から茶の歴史を見てきました。
その歴史は、
上流階級の薬用
   ↓
支配階級・商人階級の共認形成ツール
   ↓
市場の商品化・市場拡大
   ↓
行き詰まり
 
 という流れの中で、翻弄されながらも、共認形成の場の演出、ツールとしての役割を、時代ごとに中身は違えど、担って来ました。また、日本にお茶が入って来た中世以降、お茶とお茶に関わった人の営みは、その時代時代で、社会を動かす重要な役割を担って来たことが分ります。
 しかし、世界的に市場経済が行き詰まり、崩壊の危機を迎える現在、日本も例外ではなく、いくら、安全や健康を売りにした商品として販売を拡大しようとしても限界で、単なる市場の延命策でしかありません。
 とすれば、茶の次代の可能性は、
市場の商品としてではなく、原点に戻り、みんなのつながり、共認形成のツール、あるいは、場を演出するものというあたりにありそうです。
 それに加えて、食も市場経済に支配されて来た現在、本来の食=自然の摂理に合った伝統日本食に戻るという意味での茶の存在価値も忘れてはなりません。
 このシリーズでは、この視点から、茶の持つチカラを追求していきます。
では、次回をお楽しみに!!

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