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「農協(=農業会の看板の塗替え)」の誕生秘話

教科書的には、『戦後の民主化は、GHQ政策の下で「財閥解体」「労働三法の成立」「農地改革」の3本柱で進められた』、といわれているが、それは、日本の国力を衰弱させ、共産主義対抗勢力の樹立を意図したものであった。一方、郵政民営化に続いて、『巨額の外債購入で農林中金の破綻、間近か!( リンク [1] )』という状況と目される。
この2つの時を結ぶ位置に、農協の歩みがある。
1948年以降、東西冷戦が激化する中で、占領政策は、当初の民主化・非軍事化に逆行する転換が進められたが、農地改革・農協問題には変更がなされなかった、ともいわれるが、果たして本当か?
戦後一貫して、民主・平等・個人などの西洋的価値観によって集団も規範も解体され、私益追求がなされたがゆえに「農」は蹂躙され続けてきた。「農協の大罪」と題する山下一仁氏の著作が、農協の問題を鮮明に浮き彫りにしているが、それをヒントに、農協の問題を追ってみたい。何の準備も無くリレーで繋いでいく試みだが、少しでも新たな切り口を提示できればと思う。 🙄


◆プロローグ:
 「農協(=農業会の看板の塗替え)」の誕生秘話

戦前には、組合員のために肥料などを購入する購買事業や、農作物を販売する販売事業、組合員への融資を行なう金融事業などをする「産業組合」と、地主・篤農家によって農業技術の普及農政レベルの実施を担いながら地主階級の利益を代弁するための政治活動を強力に進めた「農会」があった。
第二次大戦中に、この2つの組織は統一され「農業会」となり、農作物の一元集荷農業資材の一元配給、貯金による国債の消化などを行なう国策代行機関として機能した。
戦後に「農業会」はGHQによって解散されたが、終戦後の食糧難に対処するため「食管制度」による食糧供出が最大の課題であった農林省が、農業会を農協にしてしまったので、「農協」はそれを事実上引き継いだ。
つまり、農協は、GHQの目指した民主的で自発的な共同組合ではなく、農業会の衣替えに終わった。農協法の施行は’47年12月、わずか3ヶ月後の’48年3月には1万3000の農協が成立したというから、「看板を塗り替えた農業会」といわれてもしかたがあるまい。
「その創設の事情からして、政府によって指導・育成された全戸自動加入の組織として、形式的には民主主義的であっても、実質は著しく自主性を欠き、したがってまた国家による保護と統制を受け入れやすい体質を備えていたのである。」(日本農業年報第22集:大島清「矛盾の体系としての農協」)
農協は、いくつもの顔を持つと言われる。
1.政治的な圧力団体
2.政府の施策の実践部隊
3.作物の集荷機能
4.農業資材の斡旋機能
5.商社機能
6.金融機能
 等など
農協の誕生秘話に示される問題を内包・刻印された存在で、自己矛盾に満ちているともいえるが、何のことはない、そのことこそが【日本の国力を衰弱させる】という意味では筋が通っているといえるだろう。
*参考:ローカル通信舎 [2] 
     農協/農業協同組合の誕生 [3]  
*参考:「農協の大罪」山下一仁著/宝島社新書
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