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GT2章 アメリカの共認支配

こんにちわちわわです。
戦後の日本の農政は失敗の塗り重ね構造と化していますが、根本には、国民が望んで豊かさ追求に走ったことが上げられます。
それを、裏であやつっていたのがアメリカ。
アメリカの共認支配こそが、日本にとどまらず、世界各国の食糧事情を危機に追い込んでいることを見逃してはならないと思います。
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■アメリカの共認支配
1945年8月15日、終戦を迎えた日本。
敗戦直後の、ものすごいインフレと失業と食糧不足。この深刻な社会不安を払拭し経済再建の一歩を印すのが政府の役割で、優先順位は、まず食糧の確保におかれた。
ところが、農地拡大策として過酷な労働環境のもとで行われる開拓・干拓は思うように進まず、食糧確保のため、食糧管理法を盾にした強権発動での強制供出も、基本的な低米価政策と慢性的な食糧不足のもとでは、ヤミ価格の高騰を招くばかりで、供出率は45%内外にとどまっていった。
そんな折の1954年、アメリカは条件案付きで日本に経済社会構築のための防衛上の再軍備実施と食糧増産の打ち切りを要求、財政投入型の食糧増産をやめて日本はアメリカの余剰農産物を円で買う、そのかわりにアメリカは受け取ったその円を日本への防衛投資や日本製品購入に当てるという内容のMSA協定を提示。それを日本政府は、アメリカ側の新しい援助だとして飛び付き、即座にMSA協定を締結すると、日本の農政も、これまでの方針を大転換。米麦を中心とした増産対策(いわば食糧自給)の放棄と小農保護政策の中止を決めていく。
この背景には、アメリカの深刻な余剰穀物をいかに処理するかという課題があり、日本がその実験台にされたのである。
以後、アメリカは粉食の需要拡大のため、さまざまな手を打っていく。
学校給食では「パンと脱脂粉乳」を導入し、日本の津々浦々で「キッチンカーによる洋食講習会」を行い、テレビでは「調理番組」を流し、日本人の舌を洋食に馴らしていった。
さらに、伊勢湾台風の復興支援を名目に、トウモロコシを飼料として食べる豚を贈呈(豚空輸作戦)し、生育期間を短縮でき、おいしい肉がとれるということで、一気に畜産事情を一変させてしまった。
こうした食の洋食化と飼料作物の普及が食料自給率の低下に決定的な影響を与えたのである。
「結い」や「もやい」といった相互扶助の精神で集団生活を営んできた日本人にとって、こうしたアメリカの支援は、平和友好の証として疑うことなく快く受け入れていった。
テレビではアメリカナイズされた豊かな生活が流され、個人や自由といった観念が浸透し、豊かさ実現が国家を上げての目標となってゆく。農村では私権追求の可能性が見出せない人々(特に若者)は、アメリカからの新しい文化の先端である都市に惹かれ、都市に行けば豊かになれるという幻想を抱き、都市へ出て行った。工業発展を支える安い労働力を必要としていた都市では、農村から流入した人々が賃金労働者として、また消費者として市場拡大の原動力となっていった。
こうして、日本の人々の生活は「仲間の期待がかかる集団的営み」から、「お金がかかる個人の営み」に変貌したのである。
アメリカはこうした変化を強制的にではなく、あたかもそれがすばらしいと、メディアや普及活動を通じて、日本人自らが率先して行うように仕向けてきた。
これは巧みなアメリカによる共認支配である。
■取り残された日本の農村
今や、日本の自給率は40%を切っている。農業人口は労働人口の4%に過ぎない。しかも60%が60歳を超えている。
農地改革で土地を手にいれた個人農家の多くは、手厚い保護のある稲作を選択し、他の職を持ちながら稲作を営む兼業農家になることで、生計を立ててきた。
洋食化に伴い米の需要が減少する中、農政は、価格調整のため生産量を無理やり減らす「減反政策」をとり、それでも財政の赤字が減らない農政は、市場で米の価格を決定する「自主流通米制度」を導入。現在、政府米は廃止し、価格は完全に市場にゆだねられており、米価の下落が農家の経営を直撃している。
戦後復興を果たし、世界第2位の経済大国にまで成長した日本だが、それは、農業という国家安全保障上、重要な分野を犠牲にして成し遂げられた。
戦後の日本のように、豊かさ追求を目指して工業化、市場化を進める国、それが発展途上国である。実は、日本は、発展途上国で進められた「緑の革命」のさきがけとしての実験モデルとでもいえるのではなかろうか。

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