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日本が食糧自給を低下させた背景 (2章 草稿)

  pochiです。改めて 「グランドセオリー食糧危機」の2章(草稿)を載せます。
日本が食糧自給を低下させた背景
 1945年、敗戦を迎えた日本。敗戦後、極度の食糧不足の中、「食管法」を盾に米の強制供出を試みるも、農家が高値で売れるヤミ米の方に流したため供出率は45%に留まる。過酷な環境条件のもと進める開拓も思うようには進まなかった。そこで次々と農業分野に各種奨励金が投入され、1953年には財政投入額は336億円に達した。
 そんな折、アメリカは日本に対し食糧増産の打ち切りを要求してくる。
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 財政投入型の食糧増産をやめて日本はアメリカの農産物を円で買う、そのかわりにアメリカが受け取った円を日本への防衛投資や日本製品購入に当てる、という内容のMSA協定を提示する。日本はアメリカの新しい経済支援だと飛びついた。
 農政はそれまでの方針を大転換。増産対策(=食糧自給)の放棄と、小農保護政策の中止を進め、工業化・大規模化に舵取り される。
 その後、日本で“粉食奨励”が広まっていく。「粉食は栄養を運ぶ。米は死を運ぶ。」とか「めしの食べ過ぎは短命のもと。白米を食べ過ぎると頭の働きが悪くなるどころか、早死にする」などの言葉が流布された。アメリカは食糧戦略として、学校給食における「パン食の拡充」をし、日本の津々浦々に及ぶ「キッチン・カーによる粉食講習会」を行った。アメリカは一貫して日本人の舌を馴らし、食生活を変えてまで輸出してきたのである。
 “結い”や“もやい”といった相互扶助の精神で集団生活を営んできた日本人にとって、アメリカの支援は疑いようもなく、平和友好の証しとして快く受け入れられた。アメリカの画策と日本の精神が嵌りに嵌ったのである。アメリカにしてみれば、これほど思惑通りになるとは思わなかっただろう。戦争だけでなく、自然災害などもネタにされた。伊勢湾台風の復興支援として、トウモロコシを飼料として食べる豚を贈呈し(「豚空輸作戦」と呼ばれる)畜産の生産事情を一変させる。トウモロコシで生育期間を2ヶ月短縮できることから、わずか3年で全体の90%にまで普及する。この急速な飼料作物の普及が決定的に自給率を低下させた と言える。
 アメリカは当初から“混乱期につけこんだ長期的な戦略”を企てていたのである。自主生産すべきものを「輸入でええやん」と促がすことで、集団の結集軸である根本的な共認課題を破壊し、共同体そのものを破壊する。次第に「豊かさ追求」が国家を挙げての共認になっていった。農業の近代化、規模拡大、効率化、機械化を全て補助金漬けで日本自ら展開していくようになる。日本は世界に先駆けて食糧支配の実験場にされてきたのである。
 
 大規模化・工業化の中、田園が大型機械の使える水田に見る見るうちに変わっていった。農家は機械化が進むことで作業(除草・農薬・施肥・集荷)が楽に出来るようになったが、その分負担金として長期負債を背負わされるようになっていく。米は余るほど多く作られるようになり、買い上げしていた政府も困り、減反・転作政策などでコントロールするようになる。しかし、政府の政策は失敗。補助金漬けの政策で財政は赤字になり、1967年(昭和44年)自主流通米制度が発足した。
 ’60年代、それまで農業を営んでいた働き盛りの男達の中には、物質的な豊かさを求めて都市労働者(サラリーマン)に転向する者が増えてきた。労働力を賃金で切り売りする市場の住人になっていった。水稲に比べると他の作物は手間のかかるもの。作らなくても(減反)、作っても(転作)補助金が貰える状況に農家の多数は、減反しながら米農家を続け、別の仕事をしながら収穫などの繁忙期のみ田んぼに出る、といった兼業農家になっていったのである。農村では残されたおじいちゃん、おばあちゃん、おかあちゃんが農業を行う「三ちゃん農業」が増えていく。
 共同体の消滅、働き手の流出による生産基盤の弱体化の中で心もとなくなった農家は、農業協同組合(現JA)に頼らざるを得ない。生産に関する全てのことを農協主導のマニュアルとお金で解決するようになっていった。このようにして人々の生活は、かつての「仲間の期待がかかる集団的営み」から「お金がかかる個人の営み」に変貌したのである。
 戦後の日本の農政は「緑の革命」のさきがけではなかろうか?最初の緑の革命は、1940年代にメキシコで行われたとされている。日本の終戦は1945年、時代がピタリと合う。緑の革命が東南アジアで行われる前に日本で農業の近代化の流れがあった。これを成功モデルに世界銀行が途上国へ向かった流れも見えてくる。

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