「農村(ムラ)の幸せ、都会(マチ)の幸せ――家族・職・暮らし――」(徳野貞雄 著/NHK出版) に、興味深い知見があるので、抜粋などで紹介したい、と思います。
■プロローグ
トヨ田に、ホン田に、こりゃマツ田
おまえら、田んぼの出じゃないか
田んぼつぶすな、罰当たり!
(竹熊典孝 作)
いきなりの狂歌ですが、云わんとすることは、分かるような気がします。
▲「農村の幸せ、都会の幸せ [1]」(徳野貞雄著)帯の写真より
日本人は皆、百姓の小倅だった
なのに、集団課題の『農』を軽んずれば、寄って立つ基盤をなくすことになるので「罰当たり!」なことをしている、ということなのでしょうねぇ。 これじゃ、まだ「???」でしょうから、もう少し追いかけてみます。
徳野貞雄氏は、『日本の歴史は、大きくは2度変わった。それは、[1.縄文中期(or後期)以前とそれ以降]と、[2.昭和35年以降]、だ』と捉えています。その内容を箇条書きしてみますと、・・・
1■歴史観:日本の歴史は、稲作をめぐる関係の総体だ
・縄文中期(or後期)以前の人々の暮らしは自然と共にあった。
・そして、飢餓線上にあった。
[1]縄文中期(or後期)以前とそれ以降(農耕が歴史を変えた)
・農耕は、食べものを作ってきただけではなく生活の基盤を作ってきた。
・天皇は「米」の神主(稲作の技術者兼普及者)である。
①武士は農民から生まれた、同系列の人々
・鎌倉幕府は、農民によって作られた政府。
・兵士は農民が武装したもので、豊臣秀吉の刀狩りによって兵農分離
するまでは[武士=農民]だった。
・徳川幕府の旗本は、いわば国家公務員。○○藩の武士は地方公務員。
武士の仕事の内容は、殆どが農政関係の仕事。
幕府や藩を維持するために、米を軸とした年貢の徴収から河川の改修、
新田開発や特産品の開発に注力した。
その管理・監督が武士の仕事。中・下流の武士は自らも農業を営んだ。
『日本人は、土(農)と離れた人間形成は、殆どなかった。』
・明治時代に士農工商はなくなるが、農業・農民を軸にした政治や社会
が昭和30年頃までつづく。
②日本の地域社会の原型は、ムラ(小さな集落が連携して作る大字)
・人々は、ムラの中で生産も生活もほぼ充足して生きていける。
・室町期は、農業(稲作)の生産力が飛躍的に伸び、農民がかなり力を
つけ、暮らしや地域社会を自主的に運営できる仕組みを作った時代。
『生産・生活上の空間的かつ社会的統一体がムラ』
・小学校は、殆どこのムラの範囲で建てられた。
議員や農協の総代の選出基盤も、神社や祭りなどの氏子もこのくくり。
行政の区や自治会の地域割りも殆どがこのムラの形を基礎にしている。
[2]昭和30年代(高度成長期)以降《消費者と生産者の分離》
・江戸時代の武士や商人は人口の約5%。しかも、武士の7割は、自分でも
食料を作っていた。
・昭和30年代に至るまで、庭先の菜園で何らかの作物を作る家庭が殆ど。
⇒だから、それまでは、日本には食料の純粋な消費者が殆どいなかった。
・昭和30年代(高度成長期)に、大多数の暮らしが農業から切り離された。
⇒「専業農家」と「消費者」の分離。
注目点は、
●農耕は、食べものを作ってきただけではなく生活の基盤を作ってきた。
●徳川幕府の旗本は、いわば国家公務員。○○藩の武士は地方公務員。
●日本の地域社会の原型は、ムラ
などですが、最大の気付きは、
●昭和30年代に至るまで、日本には食料の純粋な消費者が殆どいなかった。
という件りだと思います。
確かに、圧倒的多数の大衆が、僅かな食材とはいえ庭先で栽培する作物が
あればこそ、農業生産を担う人々に対する感謝の念も湧いてきますし、
その作物をお裾分けする機会にめぐまれれば、充足感も実感できました。
ところが、昭和30年代の高度経済成長期に、一気に「食料の純粋な消費者」
が増えるや、『わがままな消費者』が増大し、『農』は色褪せていきました。
今にして思えば、それを加速・増長させたキャッチフレーズが、
『お客様(消費者)は神様です』
だったように思われます。
そのような意味では、連綿と続いた人類史にあって、集団にとっての根本課題
(ゆえに最大の充足課題)である「食の確保」から遠のく人々が圧倒的多数
となった「昭和30年代」は、大きな変節点、とする徳野氏の説に『同意』します。
(つづく)
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2■日本のムラ(機能的村落共同体)のすごさ [2]
by びん