みなさん、こんにちは~ 😀 たてこです 
毎日ひっくり返りそうなくらい暑い日が続いてますね 
今回から、毎日、当然のように口にしている「食品」について、
様々な角度から追求していきたいと思いますので、応援よろしくお願いします 
まず第一弾として、
「食べる」って何?人類って、何をどうやって食べてきたの?
といったあたりに迫ってみたいと思います 🙄
まずはとっかかりとして、森枝卓士氏の「食の文化変容」序説 [1]という文章が
興味深かったので紹介します 
この森枝氏が言っている「食の文化変容」とは、
「如何にして、そして、何故、人は新しい食を受け入れるのか、
あるいは、受け入れないのか」
というテーマだそうで、人の味覚は保守的であると言う前提について検証されています 
ある食品会社で行われた官能試験と呼ばれる味覚の検査で使われている溶液に目をつけ、
その濃度に着目し、「苦いとか酸っぱいは薄いものでも感知できるが、甘いや塩っぱいは
ある程度濃くならないと分からないように、人間の味覚はできている!」という事実に着目し、
そこから
糖分やミネラルはある程度まとまった量を摂取しないと意味がない。だから、微量であれば、
人間のセンサーは感知しないように出来ている。対して、苦いや酸っぱいは食べたら
「危険である」のサインなのだから、微量でも感知するように出来ている
という仮説を導き出されています。
そこから、実は味覚とは生存のために
「食べても大丈夫かどうか」、「食べるべきものである」かを知るための
シグナルとしてもともとは存在していた感覚だった
ということは、「食べるとアブナイ」ということで、食べなれないものは食べないという保守性を
元々持っていた。それと同時に、「食べるべきものではない」ことに敏感なセンサーを持っていたということは、危なそうと思いつつも、新しいものを食べていたということとも考えられる
そして、その大前提としてヒトが雑食であるということに着目され、雑食ではない動物
(コアラや牛etc.)が、食べられまいと消化しにくくしたり、毒を含んだりという進化をとげた植物を食べるために、体をそれを受け入れるようにという方向に進化を遂げたとし、
人類が取った戦略として、少量食べる、つまり、それだけを餌として特化させず、
他の諸々と一緒に食べることで危険を回避するという路線を指摘しています。
つまり、雑食となることで、食べ物の持つ危険性を薄めるという路線を取ったのだと
そして、それには食べたものを認識し、記憶しておくという能力が不可欠なのである、
そうでないと、結果的には「大量に食べたら危険である」ものを大量に食べてしまう可能性がある。そのため、類人猿は大脳皮質の発達が顕著なのだと
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引用、抜粋以上

なるほど~と思いました。
食について、調べてみれば調べてみるほど、食べることに対しての工夫や奥深さに驚かされる
のですが、食べていくことが最大の圧力源だった外圧状況を考えてみると、当然のことなのだと気づかされました 
食文化というと、現代人としては、何を好んで食べてきた?とか、何がいつから伝わって、食べられるようになってきた?という視点で考えがちですが、
実は「食べたらやばい」あるいは「これは食べられる」という
生きていくために不可欠の知識を次代に繋げていくこと、
それこそが食文化なのかもしれません 
一方、何らかの毒にあたったとき、「これを飲めば直る」という知識が受け継がれてきたのが今の医薬品に繋がっている

そんな人類のなが~い歴史の中での、食文化のあり様に迫っていけたらと考えています 
まず手始めに、縄文時代のお薦めブログを見つけましたので、その中から記事をピックアップしてみました
ぜひ読んで見てください 
縄文人の食卓 [2]
縄文の食料庫・どんぐり [3]
縄文人の図鑑? [4]
縄文時代に栽培!? [5]
縄文時代の野菜って? [6]
山菜と日本人 [7]


