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工場野菜が危険?安全?・・・なんて考えてしまうのはなんで?⇒価値観念の洗脳が最も危険!では?

【工場野菜】って聞いただけで”危険?安全? ・・なんて考えてしまうのは、なんででしょう?
まるいちです。数年前に『買ってはいけない』という本が出版され、200万部が売れました。その後、このシリーズが続く中で、『「買ってはいけない」は買ってはいけない』『「買ってはいけない」は嘘である』と言う批判本も出版され、事実はどこにあるのか?が良く解らなくなり、いろいろ調べた経験があります。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』買ってはいけない [1]
それで、このブログの「工場生産野菜って どうなん!? ~ブログ『自然の摂理から環境を考える』~「工場野菜って・・・危険?安全?」をうけて」 [2] 「LED栽培って、どうなん?」 [3]
そして元々の『自然の摂理から環境を考える』 [4]「工場野菜って・・・・危険?安全?」 [5]
と言う記事に関して考えてみました
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■現代は、身の回りの物のほとんどが「工場で作られた生産品」で埋め尽くされています
直接身体につける衣服 や化粧品 、石鹸やシャンプー 、口に入れる薬 やサプリメント 、日常の生活空間である住宅 や事務所 、はもちろん、食べ物・・・冷凍食品 や惣菜 、お弁当 、パン 、乳製品 、缶コーヒーや清涼飲料水 、塩や砂糖 、醤油やソース 、マヨネーズやケチャップ 等、も加工され調理されたもの・・・これら全部が「工場で作られ」ています。
そして、人間そのものも発電所 で作った電力 を使った人工照明 の下、空調の効いた室内で長時間生活し、様々な電磁波 の飛び交う空間にいて、排気ガス に汚染された空気 を吸い、浄水場で人為的に加工された水道水 を工業生産品の塩ビパイプを通して飲料水 にしています。
●現代社会 においては工業生産品 を抜きにしては全く生活が成立しない状況 であるというのが現実だし、また、その恩恵 を受けて生活していると言う事もまた事実です
ですから、工場で作られたから危険人為的に加工したから危険、翻って自然の中で育ったから安全・・・と言うような価値判断は事実を捻じ曲げてしまう危険性を感じます
参考 現実否定の自己欺瞞 現実否定の自己欺瞞 [6]
それで【工場野菜 ですが、危険であるか否か の分かれ目は養液への化学物質 、具体的には植物ホルモン剤や成長促進剤等の混入の有無 、そしてその物質の危険性 は?と言う論点に絞られてくるのではないでしょうか?
しかし、この観点では他の工業生産品より危険性の特定は容易なように思います。
ちなみに、土壌で生育していない!微生物との関係は?と言う観点では、植物は土壌で生育していても有機物をそのまま吸収できないので無機物の形で必要な養分を供給できていれば、この事自体が危険と言う判断根拠にはならないと思います。もちろん、ミネラル分が少ない養液であればミネラル分の少ない野菜が出来上がり、美味しくないとか栄養分が少ない、と言う結果になるとは思いますが。
ですが、私も皆さんの意見と同じように「違和感」を感じてしまいます。
この違和感の出処はどこにあるのでしょうか?
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これは根本的には”るいネット”の投稿「安全欠乏の根底にある統合欠乏」 [7]にありますが、

期待応望関係で人間関係が統合され充足できていた時代には無かったのに、バラバラの個人に分断された社会になって「幸せ」という概念が登場したように、「安全」とは、現在の統合不全を埋めようとするために作られた代償の価値観念に過ぎないと思います。一見、生物の適応に沿ったものように見えて、実は、正反対と言えるのではないでしょうか。
 その統合欠乏に答える認識こそが農に限らず必要とされているのではないでしょうか。

と言う事だと思います
それと同時に「こんな事が本当に必要なのか?」と言う真っ当な判断の土壌が形成されてきている、とも言えるのではないかと思います
これもるいネットの投稿「超国家・超市場論23 『必要か、必要でないか』という真っ当な判断の土俵が出来てゆく」 [8]が参考になります。

つまり、『必要かどうか』という真っ当な判断の土俵が出来た以上、「物的商品」も「遊興・芸能」も、「新しい認識」も、全てが同じ土俵上で判断されることになる。この土俵こそ、人々の真っ当な共認が形成してゆく新しい場=演場の基礎構造に他ならない。

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この観点でもう一度、工場野菜の話に戻ると、もし「必要である」とする根拠があるとすれば
①急激な気象変動等による食糧不足 の時に穀物等の食糧の増産体制がとれ、飢えによる社会混乱が回避できる。
②生鮮野菜の栽培が困難な気象条件 の地域においてミネラル摂取を目的としての生鮮野菜の供給が容易に出来る。
と言うような事ではないかと思います。
しかし、野菜工場の経営を考えると軽量野菜(レタスや葉物)をごく短期間に栽培し販売する事でしか採算は合いません 。ですから、①の可能性は現状全くありません
唯一、②のような砂漠地域等での応用可能性はあるかと思います。
ですから、少なくとも日本においては「不必要である!」 と言う判断が真っ当ではないかと思います。
また、このような工場野菜では軽量野菜 しか作れない(重量野菜を重層的なラインに乗せると設備投資が大きくなる )のですが、これの採算に乗る規模を想定するとその販売範囲はかなり広域なものになり、輸送コスト がかかって決して効率的とは言えない(軽量野菜(例えばレタス)は容積当たりの単価が安くて輸送効率が悪い)ようです 🙁 。
なので、結果として普及しないだろうと思います
最後になりますが、他にもっと重要な視点があると思います。 ↓参考
「「大地は汚くて有害」!?「人糞は不潔」!?」 [9]

土地を大切にし工夫しながら受け継がれてきた日本の農業。それを「大地は汚くて有害、人糞は不潔」、こんな思想で手放していっていいの??????

「本当に汚いものってなんだ?」 [10]

「子供さんが畑や田んぼの土で服や体を汚しても叱らないで下さい。土や泥は洗えばきれいになります。本当に汚いものは日常の中できれいと思われているものの中に潜んでいます。例えばお菓子やスーパー・コンビニの弁当、惣菜、それから家の中の建材(ハウスシック病の原因)、そして普通に息している空気の中の排ガス・・・本当の汚いものは何か?一緒に考えて子供達に教えていく事が必要だと思いますよ。」

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冒頭の論点と事象は逆ですが、工場生産品は衛生的で安全 だが 、土は汚い 、人糞や家畜糞は危険で不潔 、自然は人間が征服しコントロールするもの、と言う「近代化」や「工業化」「科学技術」は絶対善であるかのような正当化の為の価値観念(これも感応観念)が固定化される事が一番”危険” ではないかと思います。
「自然の摂理」はもちろん、「近代化」や「科学技術」等どれも価値観念化させずに「事実」をしっかり追求し発信していく事の大切さを感じます。

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