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稲作と日本誕生の関係

陸稲(りくとう・おかぼ)をご存知でしょうか?
水田を作らず畑で栽培される稲のこと。
育成は比較的簡単だが、収穫量・味は落ちる。
あられ・煎餅の原料に用いられていましたが、
現在では大半が水稲米にとって代わられているらしい。
この陸稲、最初に日本に伝わって来た米は、どうもコイツらしい
(江南→西南諸島→南九州ルート)

日本における稲作の歴史は永きに渡って弥生時代に始まるとされてきた。しかし、近年になって縄文末期に属する南溝手遺跡の土器片中からプラント・オパールが発見されたことにより、約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていることが判明している。 [1]

(ウィキペディアより)
一方、水稲はこれとは別のルートで伝わってきたと考えられています
(長江下流域→北九州ルート が有力視されている)
陸稲と水稲の最大の違いは、稲作をするにあたってある程度の集団を必要としたかどうか だと思います。
陸稲は育成が容易なため、少人数でも育成・収穫は可能と思われます。
しかし、水稲では、灌漑・治水が必要なため、集団を形成することが必然となります。
その集団は、やがて村となり国家となって行きます。

今から2000~3000年前に中国から九州の北部に伝来したお米は、時の経過とともに日本中に広まっていきました。
様々な文化や稲作を中国大陸から学んで、稲作が普及するにつれて日本は、弥生文化を形成していったのです。
その頃、日本では初めての国家と言われる邪馬台国が誕生し、稲作の発展とともに、日本は国としての体裁が整いはじめました。
国の中心となったのは、言うまでもなくお米です。稲作のために集団が形成され、役割分担や階級が発生し、集団が発展して村となっていったのです。お米は、集団や村の勢力を反映する富の象徴でもあったのです。
時代が進み、江戸時代になると、大名のランクは、藩内で産出されるお米の量で計られていました。いわゆる石高制です。ちなみに一石は米の量に換算すると2.5俵です。例えば100万石だと実に250万俵ものお米を産出していたことになります。
豊臣秀吉の時代に制定されたこの石高制により、日本でのお米の重要度はより高まりました。単に食料としてだけではなく、貨幣と同じように価値を示す存在になったのも、お米中心の国、日本ならではのことと言えるでしょう。
 

(「蘭越のほしのゆめ」より)
日本と米は切っても切れない関係だということが、米の歴史を知ることでわかってきました
コータローでした
読んでくれてありがとう 😉
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